写真・インタビュー/広河隆一

Photo & Interviewed by Ryuichi HIROKAWA

まとめ/丸井春(DAYS JAPAN)

Edited by DAYS JAPAN

大熊町内を流れる熊川には土手があり、犬の散歩をしたり川辺の生き物を捕まえたりする地元の人たちの憩いの場所だったという。Aさんも幼いころ、ここで鮎釣りなどをした。事故後の歳月で土手は荒れ果て、雑草で覆われてしまった。福島県大熊町。2015年12月12日
大熊町内を流れる熊川には土手があり、犬の散歩をしたり川辺の生き物を捕まえたりする地元の人たちの憩いの場所だったという。Aさんも幼いころ、ここで鮎釣りなどをした。事故後の歳月で土手は荒れ果て、雑草で覆われてしまった。福島県大熊町。2015年12月12日 Photo by Ryuichi HIROKAWA

1大熊町、Aさん

すぐ帰れるだろう、数週間で帰れるだろうと思っていたが、帰宅の日はもう来ない。故郷はやがて壊され、中間貯蔵施設になる。事故から約5年、思い出を胸に焼き付けるため、帰還困難区域となった故郷に入った。

帰還困難区域の入口に設けられたゲート。Aさんの自宅も帰還困難区域の中にあるため、今は適切な手続きを踏み、マスクや防護服を着用しないと立ち入ることができない。立ち入りは2時間に限られている
帰還困難区域の入口に設けられたゲート。Aさんの自宅も帰還困難区域の中にあるため、今は適切な手続きを踏み、マスクや防護服を着用しないと立ち入ることができない。立ち入りは2時間に限られている Photo by Ryuichi HIROKAWA

4年1か月ぶりの私の故郷

私は大熊町で生まれて、18歳で上京しましたが、20代でまた大熊町に戻りました。結婚を決めた時、自分が大好きだった場所で自分の子どもと一緒に過ごしたいと思ったからです。日が暮れれば真っ暗になるような「ど田舎」ですが、幸せな思い出がたくさんあります。今回大熊の自宅に戻るのは2011年11月の一時帰宅以来でした。本当はもう行かないつもりでいました。他の人から「結構ひどい状態になってるよ」という話を聞いていたので、見たくないというのが本音でした。でも今回行かないともう二度と行けないかもしれないと思いました。

私の住んでいた場所は、いずれ中間貯蔵施設になります。町に住んでいた人たちの避難先の家の何軒かには、環境省の人が定期的に訪ねて来ることがあります。中間貯蔵施設になっていく進捗状況などについて報告しに来るのですが、彼らの話を聞くにつれて、あぁ、本当にここは中間貯蔵施設になっちゃうんだなと思って。

Aさんが幼いころ、町内にある初發神社では毎年秋祭りがおこなわれていた。選ばれた子どもたちが神様に扮して町を歩き、屋台も出て、楽しみな行事だったという
Aさんが幼いころ、町内にある初發神社では毎年秋祭りがおこなわれていた。選ばれた子どもたちが神様に扮して町を歩き、屋台も出て、楽しみな行事だったという Photo by Ryuichi HIROKAWA

思い出を辿る

もし原発事故がなければ、私はずっと大熊にいたと思います。自分が通っていた幼稚園に自分の子どもも通って、自分が通っていた小学校、中学校に、自分の子どもも通うのだと思っていました。子どもの運動会には、小学校の広い校庭で、家族や親戚や同級生と大きなお弁当を広げてみんなで食べるんだと思っていました。でも、その校庭も幼稚園も、かつて当たり前にあった生活の影はなくなっていて、草に覆い尽くされていて胸が痛かったです。

小学校の教室も時が止まったままでした。机の上にはランドセル。黒板には「3月11日金曜日、日直、宿題」と子どもがチョークで書いたであろう、幼くて可愛らしい字が残されていました。今にもチャイムが鳴って、子どもたちが騒ぎながら駆け出して来そうなのに、そこにはもう誰もいないんです。

二度とそこに戻れない日が来るなんて、事故が起こる前には誰も考えたこともなかったです。放課後は、友達と夕方まで校庭で遊んだり、おしゃべりしたりしました。大熊で一番好きな場所はどこ? と聞かれたら、私は小学校だと答えます。それに、校庭の端に、みんなが大好きだった大きな木があります。その木には梯子が付いていて、みんな順番待ちをして上っていました。あの木は子どもたちの、私の宝物だから、あれだけは切らないでほしいです。

Aさんが通っていた熊町小学校。アスレチックエリアや遊具もたくさんあり、広大なトラックが自慢だったという校庭は、腰に届くほどの雑草に覆われていた
Aさんが通っていた熊町小学校。アスレチックエリアや遊具もたくさんあり、広大なトラックが自慢だったという校庭は、腰に届くほどの雑草に覆われていた Photo by Ryuichi HIROKAWA

当たり前の毎日が消えた

熊川には歩きや自転車でよく行きました。川岸に下りる土手はもう草や蔓に覆われてしまっていたけど、当時はもっときれいで、小さな子どもたちもよく遊びに行っていました。釣りをしに来る人もいて。私も幼いころ、祖父や祖母、兄弟や従兄弟たちと一緒に行って、ビショビショになりながら鮎や小さなカニを獲って、川辺で鮎ご飯を炊いてもらったり、鮎を焼いてそのまま食べたりしました。本当に田舎の子どもたちって感じですが、楽しかった。そしてそれは、当たり前の毎日だったんです。近所の人が外でバーベキューしているのも普通。若いお母さんたちが子どもと公園でオヤツを食べていたり……。海や川や自然がとても身近な場所だったんです。

中学生になると、悩みがあると自転車を走らせて海に行ってました。早朝から、真夜中にも。本当にしょっちゅう行ってました(笑)。いま津波に流されてしまった海沿いのエリアは、確か当時田んぼや友達の家などがあったのですが、あそこも、ボロボロになってしまっていたけれど、私にはその時々の感情がつまった大事な場所です。

今回の帰宅では「(家に)子どもがいるから」と、放射能に汚染されていることを心配し、本当に持ち帰りたい思い出深いもののみを選んだ。昔好きだったぬいぐるみは、「子どもが触ったら危険だから」と持ち帰らずに残した。高校の卒業アルバムを見るAさん
今回の帰宅では「(家に)子どもがいるから」と、放射能に汚染されていることを心配し、本当に持ち帰りたい思い出深いもののみを選んだ。昔好きだったぬいぐるみは、「子どもが触ったら危険だから」と持ち帰らずに残した。高校の卒業アルバムを見るAさん Photo by Ryuichi HIROKAWA

がっかりして、悔しくて

熊川を下り、海に出た所からは原発が見えます。今、あの事故から5年近くたって、それでも日本には再稼働する原発があります。正直、「ふざけんな」の一言しかありません。がっかりして、残念で、くだらなくて、失望して悔しくて。何のために、あの事故はあったのだろう。まとまらなくてぐちゃぐちゃな「ふざけんな」です。絶望しても、せめて何か変わると信じたかった。

中間貯蔵施設になるにしろ、どうせ帰れないのだから仕方がないという人もいれば、場所的には売らないといけないのだけど、土地や家を手放すなんて絶対にいやだという人もいて、町が分断されてしまっているのを感じます。同じ町の人たちの間に見えない深い溝ができ、不満や不安が膨れ上がっているのも感じてとても哀しいです。

今は、年月が過ぎたからなのか、子どもが産まれたおかげなのかはわかりませんが、地元のことを考えて悲しんだり悔しく思ったりしている時間は減りました。子どもは宝物です。私の希望です。だから、生きていける。それでもいまだにテレビなどで地元のことや、原発に関するニュースを見ると、突然涙が出ることがあります。

自転車に乗ってよく行ったという海岸に立つAさん。この海岸からも津波が大熊町の沿岸部を襲った。「大好きな場所だったけれどもうずっとはいられない」とつぶやいた。
自転車に乗ってよく行ったという海岸に立つAさん。この海岸からも津波が大熊町の沿岸部を襲った。「大好きな場所だったけれどもうずっとはいられない」とつぶやいた。 Photo by Ryuichi HIROKAWA

さよならの最初

2011年3月11日は、私たちは夕方に避難所になっていた近くの体育館に行きました。でも人がいっぱいで、結局は夜中に一度自宅へ戻りました。自宅はドアが歪んでいて入れなかったこともあり、家の前の空き地に車を停めてその中で寝ました。朝、消防の人たちに車の窓をノックされて「避難してね」って。今思うとあれが避難の始まりで、地元とのお別れの最初だったんです。車で寝ていたときに寒くて、2階の自分たちの部屋に、雨樋をよじ登りなんとか入って、上着と眼鏡を取ったけれど、すぐに帰れると思っていたから、数日間家を空けても大丈夫ぐらいのものしか取りませんでした。

今回久しぶりに自分の部屋に入ったのは、本当は、中学校の時の写真立てを探したかったんです。でも結局見あたらなくて、持って帰って来られませんでした。部活の大会で宿泊したときに友達と撮った写真です。実は去年の9月に空き巣に入られて、いろいろ壊されたりしたので、その時にどこかに行ってしまったのかもしれません。その友達とも、今は別々のところに避難していて、みんなバラバラです。けれど、懐かしい写真やプリクラが思っていたよりもたくさん見つかってなんだか安心しました。宝物だからうれしかった。大切にしていた絵本や、持って来ることは出来なかったけれど、小さなころに誕生日プレゼントにもらったぬいぐるみなど、あの部屋にはまだ、私が大切にしていたものたちが、たくさん残されています。

息子は12年に産まれました。彼に将来、故郷のことを何て説明しようか考えることもありますが、幼いうちは私の故郷の地名や原発のこと、帰れない場所であることは話さないつもりでいます。その代わり、自分が18歳まで住んでいた「ど田舎な故郷」の話をします。そしていつか、町の名前や原発事故のことを聞かれたら、起こった事故のことや私たちの身に起きたことについて、私が知っていることを話すと思います。

どうしてかというと、環境省は中間貯蔵施設は30年以内に汚染ごみを県外に搬出して土地を返すとしていますが、そういう日が本当に来たとして、30年後に、もし私の親や私が生きていなかったら、私たちの家のあった場所の土地は、息子が継ぐことになるからです。わざわざ見せたくはないけれど、正直、継いでいって欲しいという気持ちもあります。私の育った家があった、という事実が完全になくなるのは悲しい。ただ、まだ分かりません。この5年、たくさんのことを考えていますが、もう戻れない、戻らないんだな、ということだけは確実だと思っています。

今回行って良かったです。あそこには二度と住むことはできないけれど、全部が壊れたわけじゃないってわかったからです。好きだったものや大好きだった場所、記憶に強く残っているものが残っていた。それがなくなる前に行けてよかった。

 

故郷の双葉町を訪れたBさん。汚染廃棄物などを入れたバッグが山積みになっていた。福島県双葉町。2015年12月11日
故郷の双葉町を訪れたBさん。汚染廃棄物などを入れたバッグが山積みになっていた。福島県双葉町。2015年12月11日 Photo by Ryuichi HIROKAWA

2双葉町、Bさん

双葉町にあるBさんの実家は昔、いま福島第一原発が建っている場所にあった。原発建設と同時に立ち退きをし、今度はその原発の事故によって故郷を追われた。事故後は約5か月、避難所を点々とした。事故翌日、情報が入らず、子どもを屋外に出してしまっていたことを

今も後悔しているという。

双葉駅のホーム。雑草に覆われていた
双葉駅のホーム。雑草に覆われていた Photo by Ryuichi HIROKAWA

避難の始まり

双葉町の実家には、大学の4年間を除いて、結婚する26歳までいました。原発からは約2・2キロです。2010年の出産時には里帰りもしていたし、結婚し、夫婦で浪江町のアパートを借りた後もよく行っていました。

2011年3月11日は、私は浪江町のアパートにいました。いま上の子が5歳、下の子が2歳なのですが、あの頃は上の子がまだ10か月で、ちょうどお昼ご飯の後片付けが終わったころに地震が来ました。外に飛び出し、立っていられない揺れで、子どもを抱えて地面に横たわっていたのを覚えています。その後、少し揺れがおさまったので、まずは避難しようと思い、荷物を取りにアパートに戻りました。その時は、もうそこに戻れないなんて思わなかったです。

津波が来るかもしれないと思いました。主人の実家が浪江町でも海沿いの地域である請戸にあるので、主人の父親たちが、地震イコール津波だと言っていたのです。急いで私の車と主人の祖父の車に別れて、高台の方に逃げました。高台に着いたときに「請戸は全滅だ」と聞きました。でもこの時には、原発が危ないなんて全く考えていなかったです。私の主人は福島第一原発で働いているのですが、当時、その事務所にいた主人から「俺は大丈夫」というメールが来たので、それで大丈夫と思ったのかもしれません。でも、後から聞いたのですが、事務所の天井の一部が落ちてきていたそうです。

浪江町の幾世橋小学校に避難すると、すでに大勢の人たちが雑魚寝状態で避難していました。その日は、主人がアパートから持ってきてくれた1枚の毛布に3人でくるまって寝ました。

翌12日の早朝に小学校の外に出てあたりを見ていると、小学校から次々と人が出て来ました。すれ違った人に「どうしたんですか」と聞いたら、「原発が危ないからみんな避難している」と言われました。そこで初めて、原発が危ないということを知りました。それで私たち家族も急いで、南相馬市の小高にある親戚の家まで避難しました。

小高に着いたのは12日の朝8時ぐらいです。着いて少ししたころ、子どもが泣いたので、おじいちゃんが外で散歩させていました。その時、晴れているのに霧雨が降っていて、なんだかすごく不気味な感じがしました。あれは原発から出ていた水蒸気なんじゃないかと思っています。だから、あの時に子どもを外に出させていたことを今でも悔やんでいます。

そしてお昼を食べた後、私と主人と子どもの3人で、浪江のアパートに下の子のミルクや離乳食を取りに向かいました。そうしたら、アパートの近くに防護服を来た男の人が2人立っていて、私たちの車を止めて「ここは原発の10キロ圏だから入れない」と言いました。「荷物を取ってくるだけだから通してほしい」と言うと、「すぐ戻って来てください」と言われました。なぜ立ち入り禁止なのかは説明されませんでした。理由が分からなかったので、高線量だったかもしれない中、車の窓を開けて走ってしまいました。これも今はすごく後悔しています。

小高に戻ると、今度は別の親戚が急にやって来て、「原発が爆発するから逃げろ」と私たちに伝えました。それで夕方になる前にみんなで慌てて避難しました。その人は友達が原発で働いていて、原発が危ないから逃げろという連絡を受けたそうです。それを聞いていなかったら、私たちは小高にい続けていたでしょうね。実は私は、事故が起こるまで、原発のことは何も知らなくて、そんな危険なものだとは思っていなかったのです。主人の部署にはそういう情報は来ていなかったそうですが、信じられなかったみたいです。「爆発なんてするはずない」と言っていました。それまで、私たちにとって原発、東電というと、どちらかというと少し華やかなイメージだったのです。地域に対していろいろと支援をしてくれましたし。

それで、原発が危ないという話を聞いた後に、何も分からなくて怖くなって、飯館村の親戚のうちに向かおうとしましたが、ガソリンも少なくなり、途中の葛尾村の役場で「どこに避難していいかわからない」と伝えました。案内されて行った近くの避難所は、ストーブが1台ありましたが、雪が降っていたので寒かったです。そのときはさすがに原発が爆発したことをもう知っていましたし、避難所での話題にもなっていました。

家の敷地内にある先祖のお墓にリンゴをお供えして手を合わせるBさんと妹
家の敷地内にある先祖のお墓にリンゴをお供えして手を合わせるBさんと妹 Photo by Ryuichi HIROKAWA

14日は父が迎えに来てくれて郡山市の旅館に1泊しましたが、翌15日からはまた避難所探しです。そんな中で、相双地区(相馬地域と双葉地域)の人は、スクリーニングを受けてからではないと避難所に入れないと聞きました。郡山市役所の近くでスクリーニングをしていたのですが、受けるために雨のなか2時間以上も外で待ちました。傘がなかったので、妹に1本だけ借りて、みんなで体を寄せ合いました。場所がなかったわけではないのに、どうして外で待たされたのか、よく分からなかったし不安でした。あの時、そんな私たちの姿を見て「子どもが風邪をひいたら大変だから」と青い寝袋をくださった男性がいて、すごく感激したことを覚えています。

スクリーニングを終えて、市役所の目の前の施設を教えてもらって行きました。着いたら、最初は快く受け入れてくれたのですが、自分たちが相双地区から来たと言うと、急に「相双地区の人は受け入れできません」と言われました。やっと暖かいところに入れたと思ったのに出なければいけないという悲しさと悔しさで私は泣いてしまいました。結局は受け入れてもらえたのですが、私たち家族は郡山からの避難者とは別の部屋をあてがわれました。その後は千葉県などを点々として、最終的には福島県いわき市でアパートを見つけ、そこで生活することになりました。

双葉町の実家には26歳まで暮らした。従妹のお嫁さんが子どものためにプレゼントしてくれたという服は、とうとう着せる機会がなかった
双葉町の実家には26歳まで暮らした。従妹のお嫁さんが子どものためにプレゼントしてくれたという服は、とうとう着せる機会がなかった Photo by Ryuichi HIROKAWA

健康面の不安、打ち切られた補償

震災後は特に健康面で不安なことが増えました。子どもに急にアレルギーや中耳炎の症状が出たり、紅斑ができたり、風邪が長引いたりしました。紅斑は、いろんな病院を転々として、最終的に多形滲出性紅斑と診断されました。顔が腫れたり、両手足が赤く腫れ上がったりして歩けなくなりました。また、私の周りでも、子どもに喘息や湿疹がでるようになったという話や、母親たちの間では、事故直後に喉の痛みが出たという話をよく聞きます。

もうひとつ心配なことがあります。私たちは、2012年6月の一時帰宅の時、下の子の妊娠に気づかないで浪江町のアパートに行ってしまいました。その時に双葉の実家にも寄っています。とくに注意もなかったので、薄いマスクしかしていなくて、外して飲み物を飲んだりしていました。放射能を浴びてしまったので、この先子どもに影響が出たりしないかと心配です。

事故後の体調不良は主人や私、犬にもでました。主人は事故後の甲状線検査で嚢胞が見つかり、2014年に厚労省が、事故後原発内で働いた全作業員を対象に行った「緊急作業従事者検診」では、血液像の検査でE判定、要定期的検査の判定を受けました。私は事故直後にほくろが増えたり、2年目ぐらいには目の異常が気になり始めたりしました。今も違和感が続き、膠原病を疑われましたが詳しいことは分かりません。左耳で低い音が聞こえにくくもなりました。疲れやストレスという診断を受けましたが。2011年5月の検査では肝機能の数値も落ちていました。皮膚の柔らかいところにいぼのようなものもたくさんできました。事故前まではなかったものです。避難中には髪の毛がすごく抜けました。枕に髪がいっぱい抜けて、このままはげちゃうのかなと思ったぐらいです。あとは、一時期、鼻血問題がありましたが、私は鼻血が頻繁に出ました。鼻血が出たのは、子どものころ以来だと思います。喉の痛みも年中あり、風邪の治りも悪くなりました。血尿のようなものも続いていて病院で検査をしていますが、原因はわかっていません。事故後、飼っている犬も頻繁に下痢を起こしていました。

また、補償の問題についても理不尽を感じていることがあります。私の主人は原発で働いていて、さらに事故当時アパートに住んでいたため、借り上げ住宅に避難してからは補償を一切打ち切られました。家族全員の補償をです。それはおかしいのではないのかなと思って、2人目がお腹にいる時に補償のコールセンターに電話をしたら、「それはアパートを移転しただけにすぎないので、避難にならないんです」と言われました。他の人と同じように避難しているのに、避難じゃないと言われたことがショックで、双葉町に住んでいたことも全てをなかったことにされたような気持ちになり、電話でのやりとりの後にお腹が痛くなり、切迫早産で一か月入院しました。

原発はもういらないと思っています。再稼働も反対です。どうしてこういう事故があってもまだ動かそうとするのでしょう。まだ避難生活をしている人がいて、いまだに自殺する人がいるんです。私の知り合いのおばあちゃんも、先月自殺しました。もともと大熊町に住んでいた方でした。

事故が起きたけれど、「家が建ったからいいよね」ということでもまったくありません。生まれ育ったところで生活していくこと、生まれ育ったところが「在る」ということは、何よりも大事なことだと思っています。