プリピャチから避難した市民が埋葬される墓。この女性は出産の時に、生まれたばかりの子とともに死亡した。キエフ郊外、ウクライナ。2016年1月16日
プリピャチから避難した市民が埋葬される墓。この女性は出産の時に、生まれたばかりの子とともに死亡した。キエフ郊外、ウクライナ。2016年1月16日 Photo by Ryuichi HIROKAWA

ダプリピャチから30年前に逃れた人々が、そしてかつてともに救援活動をした仲間たちが、この数年で次々と命を落としていた……。この事実と、いったいどう向き合えば良いのだろうか?

写真・文/広河隆一

Photo by Ryuichi HIROKAWA

「ウクライナとベラルーシの人口変動、激増する死亡と激減する出生」より引用 (http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/genpatsu/ukraine2.html) (なお、このホームページのグラフは、英語版Wikipedia「Demographics of Belarus(ベラルーシの人口統計)」と「Demographics of Ukraine(ウクライナの人口統計」をもとに作成されている)
「ウクライナとベラルーシの人口変動、激増する死亡と激減する出生」より引用
(http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/genpatsu/ukraine2.html)
(なお、このホームページのグラフは、英語版Wikipedia「Demographics of Belarus(ベラルーシの人口統計)」と「Demographics of Ukraine(ウクライナの人口統計」をもとに作成されている)

プリピャチ避難民にしのび寄る死の影

2016年1月、私はウクライナに向かった。チェルノブイリ30年を迎え、福島が5年を迎えるこの年に、福島の30年後を考えるヒントを得たかった。

ウクライナでの取材が半ばを過ぎた時、私はツイッターに「うろたえている」と書いた。実は、かつてともにチェルノブイリの救援活動をしていた現地パートナー組織である「チェルノブイリの家族の救援」(以下「家族の救援」)のスタッフのおよそ半分が、この8年間のうちに次々と死んでしまっていたのだ。

救援団体の死んだ仲間たちの遺族のインタビューや、今回の取材で聞いた避難民アパートで相次ぐ葬式の話を聞くにつれ、これは事実なのだと、何度も自分に言い聞かせなければならなかった。

プリピャチ第一学校の廊下に残された椅子。プリピャチ、ウクライナ。2016年1月13日
プリピャチ第一学校の廊下に残された椅子。プリピャチ、ウクライナ。2016年1月13日 Photo by Ryuichi HIROKAWA

仲間たちの最期と現スタッフの病気

「家族の救援」のスタッフは、全員チェルノブイリ原発に隣接するプリピャチ市の出身だった。そして事故とともに避難民となった。彼らの多くが事故後も、除染作業員として30キロ圏内で働いた。

ウクライナの首都キエフの中心を流れるのはドニエプル川である。その橋を渡って左岸に行くと、アパート群が並ぶ巨大な一画がある。すぐ横にある村の名前を取ってトロイシェナと呼ぶことが多い。大通りから入ったすぐ近くの部分は、ほとんどプリピャチからの避難民住宅となっている。プリピャチにはおよそ5万人の人々が住んでいた。そのうちの1万7000人は15歳以下の子どもたちで、町の平均年齢が27歳という若い都市だった。

プリピャチでは1986年4月26日未明(午前1時23分)の事故発生後、しばらくは原発で何が起こっているか隠された。夜が明けて、学校はいつもどおりに始まり、散歩や買い物をする人が多かった。避難が決まるのは翌日午前になってからで、12時に市民にアナウンスされた。人々は集められた1200台のバスと、近くのヤノフ駅からの列車、プリピャチ川の船、さらに自家用車で避難した。事故が公表された後は自家用車による移動は禁じられたが、この日は連休の最初の日で、すでにキエフや他の場所に自分の車で移動していた人も多かった。

旧ソ連は原発事故の避難民のために、仮設住宅ではなく、当時としては立派な新築アパートを提供した。それがトロイシェナだ。事故から30年が経ち、建物は傷みが激しい。同じような形の青っぽいアパート群の中を行くと、すぐに見慣れた2階建ての施設が現れる。私が日本の「チェルノブイリ子ども基金」の代表をしていた時に、現地パートナーとして選んだ「家族の救援」と市の中心部にあるもう一つの団体「チェルノブイリの子どもの生存」の事務所だ。

「家族の救援」設立時の代表はバツーラ・ゲオルギー。プリピャチでは、建設公団の副議長だった。副代表はガリーナ・ブリニツカヤ。もともと彼女が組織を作った時に、強い政治能力と人的ネットワークをもつバツーラを代表に迎えたのだという。ガリーナの姉はドゥーシャ・ゴマルバ。彼女は住民連絡係をしていて、避難民の必要な書類を集めたり、連絡の中心役となり、音楽の経験から民族音楽のグループ「チェルボナ・カリーナ」のリーダーもしていた。医療チームの中心にいたのはベン・ミチノビッツ医師で、彼は事故まではプリピャチ中央病院の外科部長だった。事故の時、病院に運び込まれる急性放射能障害の消防隊員や原発運転員の対応をしたのがベンで、彼は被災者に付き添ってモスクワの第6病院に行っている。会計係は、ノビコワ・アントノニナとスベトラーナ・プロコビッツだった。そのほか団体にはドイツ語の通訳等の職員がいた。中心スタッフは10人だった。

プリピャチ第一学校の校舎は半ば崩れ落ちて、教室の机や椅子がむき出しになっている。プリピャチ、ウクライナ。2016年1月13日
プリピャチ第一学校の校舎は半ば崩れ落ちて、教室の机や椅子がむき出しになっている。プリピャチ、ウクライナ。2016年1月13日 Photo by Ryuichi HIROKAWA

バツーラ・ゲオルギーは事故が起きた時、建設公団の副議長をしており、この団体に属する家族2万人の連絡の中心になっていた。避難先や宿泊先を決めていく係だったのだ。同時に事故対策委員会の会議にも出入りしていた。そこでは市民の避難については軍をはじめほとんどの代表が賛成したが、最後まで反対していたのが、モスクワから来たICRP(国際放射線防護委員会)やIAEA(国際原子力機関)関係の医療専門家たちだったと、彼は私に教えてくれた。会議は紛糾したが、事故翌日の朝になって「この市には1万7000人の子どもが住んでいるんだ!」と机をたたいたプリピャチ市当局責任者のひとことで、避難が決まったという。

バツーラと私は、キエフの子どもセンターだけでなく、避難民の子どもたちのための施設造りや、黒海の保養センター建設をおこなった仲だ。しかし、私がこの組織の支援から手を引いた少しあと、脳出血で2009年に亡くなった。81歳だった。

副代表だったガリーナ・ブリニツカヤは1956年に生まれて、プリピャチからの避難後「チェルノブイリの子どもたち」「チェルノブイリ同盟」で働いた後、ドイツの支援を得て「家族の救援」を立ち上げた。死因は脳卒中だったが、膵臓の病気で血圧に負担がかかったのだ。放射線医療センターに入院し、2008年9月3日に亡くなった。52歳だった。診断書には「チェルノブイリ事故が原因」と書かれていた。

住民係のドゥーシャ・ゴマールバはキエフの医科専門学校に学び、プリピャチで幼稚園の先生になった。その後は隣のノーボ・シュペリチ村に移り、母親の店を手伝っていたが、被災した。

娘のベロニカによると、15年5月に、ドゥーシャの手足が麻痺した。救急車で運ばれた時、医師は脳卒中だと思ったが、珍しい自己免疫攻撃性の疾患だとわかった。麻痺は手足から肺や気管支に広がった。2週間後には自分で呼吸できなくなり、気管支にパイプを入れた。意識はあり、手が動くようになり、筆談をしていたという。3か月後に症状は回復に向かい、自宅療養に切り替わった。話せるようになり、手も自由になった。しかし血圧の問題があった。座っていると上が70、下が50になり、横になると2分後には上が2 00になるという状態だった。そして脳卒中が起こった。すぐに検査したが、脳の半分は出血していて、手術できないと言われた。そして11月10日に亡くなった。64歳だった。

ベン・ミチノビッツは1946年生まれ。彼はキエフに避難して、バツーラの後に「家族の救援」代表となったが、2013年に呼吸の辛さを訴えはじめ、やがて歩くこともできなくなった。血液学専門家の精密検査を受け骨髄検査をおこない、めったにない病気と診断された。病名を通訳は翻訳できなかった。輸血を200回以上おこなったという。14年に症状は少し回復した。しかしすぐに集中治療室での生活に戻った。息子のイワンも父と同じ医師だが「父は『もう疲れたから、静かに死にたい、死にたいから助けてほしい』と言いました。そして眠りに落ち、目を覚まさないまま亡くなりました」と話してくれた。死因は手術の感染症による合併症だった。薬の効果がなくなり、免疫が働かなくなったのである。15年11月4日、69歳だった。

ノビコワ・アントノニナは、プリピャチでは建設公団の会計係だったが、事故の時、何が起こったのか理解できないまま、自分の菜園に向かった。原発のすぐそばにあった。道路には警官が多くいたが、止める者はいなかった。そして彼女は急性放射能障害になって病院に運び込まれた。当時旧ソ連は、消防隊員と原発運転員以外の急性放射能障害を認めていなかった。一般市民にこの症状は出なかったと、今でも日本を始め世界の専門家たちは言い続けている。ウクライナの医師たちは彼女の症状に驚き、モスクワから旧ソ連の医療関係の専門家を呼んだ。そして彼女は、急性放射能障害患者の第一号市民と認定された。そしてただちに骨髄移植がおこなわれた。

モスクワの第6病院では、消防隊員や原発運転員への骨髄移植はアメリカの専門家ゲイルによっておこなわれた。それは骨髄の全移植だった。しかしキエフではキンゼリスキー医師によって、破損した部分だけ移植がおこなわれたという。モスクワで骨髄移植した患者たちは全員死亡したが、キエフで彼女の移植は成功した。そして彼女は、事故から8年後の1994年に「家族の救援」がスタートすると、会計係として迎えられることになる。彼女は、心筋梗塞で2010年に亡くなった。58歳だった。

スベトラーナ・プロコビッツはノビコワの跡を継いで会計係になった。1959年9月5日生まれで、事故の時は25歳。プリピャチのラジオ工場ユピテルで働いていた。しかし2010年ごろ乳がんを発病し、14年9月に55歳で亡くなった。がんが肺と肝臓に転移したのだ。

プリピャチ第一学校の理科室。プリピャチ、ウクライナ。2016年1月13日
プリピャチ第一学校の理科室。プリピャチ、ウクライナ。2016年1月13日 Photo by Ryuichi HIROKAWA

さらに、現在のスタッフも、深刻な病気を抱えている。

たとえば現理事長のイリーナ・ドリンスカヤは、甲状腺肥大で3度手術している。子宮がんも手術し、ポリープだらけだった卵巣も取った。さらに胆のうの手術もしている。今も頻繁にめまいが起こる。長男はがんになり、次男は頻繁に気を失うという。彼女は2度結婚しているが、1回目の結婚相手は事故処理作業員で、36歳で死亡した。帰宅して家の前に車を止めたとたんに心臓発作を起こしたという。

死者が多くみられるのは「家族の救援」のスタッフだけに見られることなのだろうか。イリーナ理事長によると、一緒にプリピャチ市の建設公団で働いていた36家族のうち17人が死亡したという。この夏7月から9月までの3か月間に、自分のアパートで7人が死亡した。みんな50代半ばでプリピャチ出身、心臓病、脳出血、がんなどが原因だった。

61歳の女性プリシュークは、プリピャチでは食品加工工場で働いていた。事故が起きた時、上司はあきらかに工場を封鎖したがったが、原発作業員たち全員の食べ物を作らなければならなかった。事故翌日の4月27日、それを納品した後、全員が避難した。プリシュークの夫は事故後も処理作業員として働いた。そして1989年に胃がんになった。それ以来、年に2回入院している。彼女は2000年に甲状腺手術をしなさいと言われたが、別の医者は手術の必要はないと言ったのでしなかった。今はしゃがんでも寝ても、体が重く感じるという。血圧も上が180から220になるのだ。また、娘と息子がいるが、もともとプリピャチ市民だった娘はアレルギー体質で、健康状態は良くないという。甲状腺異常もあり、孫の7歳の男の子も扁桃腺炎の手術をした。

ウラジミコフは69歳の男性で、事故処理作業の仕事に10年半携わった。妻は事故処理作業をしていた。石棺の工事が中心だった。「キエフから運ばれてきた砂利を使ってコンクリートにして、原子炉の方に運んでいました。その時、足の指の間から膿が出て止まらなくなりました。医師は原因が分からないと言いましたが、私にはすぐに分かりました。トラックの荷台が汚染されていたのです。急に記憶力もだめになりました。自分の名前も身分証を見て確認しなければなりませんでした。気を失うことも多く、血管も弱く、すぐに手足が腫れ上がります」

事故の時、彼女は2人目の子どもを妊娠していた。4か月だった。しかし医師の勧めで中絶し、胎児の遺体はモスクワの研究所に送られた。多くの人がこのようにさせられたという。事故から3年目の1989年に女の子が誕生した。この時は、プリピャチ避難民で血圧が高いという理由で、ほとんどの産院で出産を断られたが、一か所だけ引き受けてくれた。生まれた女の子は脳障がいを抱えている。長男に症状が出たのは、事故の翌年だった。「87年4月26日、学校で急に心臓が弱って、そのまま入院しました。心臓が悪いので兵隊にも行っていません。今は40歳です」

プリピャチ中央病院の病室。急性放射線障害の症状を起こし、爆発現場から運び込まれた消防士と原発運転員は、いったんこの病院に収容されて、すぐにモスクワに搬送された。プリピャチ、ウクライナ。2016年1月13日
プリピャチ中央病院の病室。急性放射線障害の症状を起こし、爆発現場から運び込まれた消防士と原発運転員は、いったんこの病院に収容されて、すぐにモスクワに搬送された。プリピャチ、ウクライナ。2016年1月13日 Photo by Ryuichi HIROKAWA

ウラジミコフに、健康状態の悪さは全部事故のせいだと思っていますかと聞いた。「症状を訴えても、医者は風邪だと言っていました。でも7、8年後に同じ医者に会ったら、『あの時は事故のせいだと言うことが禁止されていたから、風邪だと言ったのだ』と話してくれました」と答えた。

死者が多いというのは本当なのかと聞くと、「非常に多くの人が亡くなっています。お葬式ばかり行っています。私の周りの人はほとんどが亡くなってしまったように思います。病気だけではなく、酒の飲みすぎや、自殺もあります。また私と一緒に働いていた人は120人いたのですが、40代の7人が自殺しました。55歳ぐらいの人は70パーセントが亡くなってしまったと思います。多い病気は、心臓病、悪性腫瘍などです。私のアパートには195家族が住んでいますが、みんなプリピャチの避難民で、次々と亡くなっています。この1年に11、12回くらいのお葬式があったと思います。アパートで自殺したのはこの1年では1人でした」と答えた。

救援運動「チェルノブイリの子どもたち」を起こして、89年11月から90年4月まで代表を務めたタチアナ・ルキナは「事故の日、家の窓から長女のナターシャの学校を見ていると、朝の体操を少ししてすぐにみんな教室に入ってしまいました。そのうち学校から知らせがあり、すぐに来いと言われ、駆けつけると、ナターシャは嘔吐を繰り返していました。ヨード剤を飲んだ後、吐いているということです。ナターシャを連れて帰ろうとしましたが、学校はそれを許しませんでした。親は誰も子どもを連れ戻すことはできず、プリピャチの全ての学校で同じ状況でした」と語った。

道路を何かの泡で洗浄していた。それで彼女は原発が事故を起こしたと知った。82年か83年にも原発で放射能を放出する事故が起こり、そのときも泡で道路を洗浄していたからだ。

このときタチアナは妊娠していたが、友人と16階建ての建物の屋上に行って、原発の火災を「見物」した。青い光だったという。妊娠しているのに、胎児を放射能にさらしてしまったと、彼女は長く自分を責めることになる。自分が衛生指導班のリーダーだったのに、なぜ放射能への危機感がなかったのか、今でも自問している。「ソ連時代は原発が安全だというプロパガンダを信じていて、たとえ事故が起きても世界一安全な事故」と説明されて、それを信じていたのだ。

「死の街」となったプリピャチ市街の上空写真。プリピャチ、ウクライナ。2016年1月13日
「死の街」となったプリピャチ市街の上空写真。プリピャチ、ウクライナ。2016年1月13日 Photo by Ryuichi HIROKAWA

彼女たちは事故翌日の4月27日に西に逃げ、ポレスコエ市の病院に集められ、医師たちから中絶を迫られた。プリピャチには当時妊娠していた女性が多かった。そのほとんどが中絶を勧められたのではないかという。しかし彼女は拒絶した。こうしてサナトリウムで次女アリョーナが生まれた。アリョーナはさまざまな病気を体験し、最近は卵巣の手術をし、さらに流産した。妊娠しても出産がうまくいかない症状は、チェルノブイリの被害者に増えているという。

タチアナは2010年に悪性腫瘍のため、救急車で病院に運ばれた。がんは大腸にも小腸にも転移して、3回手術をしている。年金はすべて痛み止めの薬代で消えていくという。

「プリピャチから避難した子どもは1万7000人です。その半分は30歳まで生きていないと聞きました。救援団体が避難先に問い合わせてデータベースを作って、調べたのです」

ピリピャチ避難民が多く住むトロイシェナのアパート群。キエフ、ウクライナ。 2016年1月12日
ピリピャチ避難民が多く住むトロイシェナのアパート群。キエフ、ウクライナ。2016年1月12日 Photo by Ryuichi HIROKAWA

心のケアのために

「家族の救援」のスタッフだったドゥーシャの娘ベロニカは、プリピャチ出身者に対する差別を考えたり、必要なケアを考えるために、社会心理学を専攻した。彼女は次のように言う。

「放射能のことを意識したのは、小学1年生からです。教室ではキエフ市民の子どもたちも一緒に勉強していました。その子どもたちが、『やーい、チェルノブイリ人』とか『放射能をうつさないで』とか言いました。私は痩せていたので、『チェルノブイリ人だからだ』と言われました。私はコンプレックスがあったので、自己評価はいつも低かったです。なぜ大学の社会心理学部に入ったかというと、コンプレックスのせいです」

「被災した子どもにどのように放射能のことを教えたらいいかについてですが、問題は被災者の子にあるのではなく、周りの社会にあるわけです。犠牲者のコンプレックスが形成されるのも、周囲のせいです。子どもたちには、被災者の子どもたちは普通の子どもで、特別扱いにしないで他の子どもたちと同じ態度で対応しなさいと言う必要があると思います。こういう問題には心理学者や心理療法のサポートが必要です」と訴える。

チェルノブイリ、福島原発事故からも、私たちは何も学ばないのだろうか

チェルノブイリ事故から3年目、4年目に私が現地入りしたとき、すでにベラルーシやウクライナでは、甲状腺異常はじめ、血液を中心にあらゆる病気のきざしにおびえ、助けを求めていた市民や医師がいた。しかし、日本の重松逸造氏はじめ、IAEAやICRPなどの国際的な「知見」をふりかざす専門家たちがそれを踏みつぶした。そして翌4年目には、小児甲状腺がんが急増するのだった。それをも「知見」は無視した。

やがて専門家たちも、彼らの主張を垂れ流していたメディア関係者も、言葉を失う時がきた。あとに残るのは何か。彼らを信じてしまった自分自身を責める、親たちの悲痛な叫び声なのか。

しかし、絶望するには早い。まだ時間はあるからだ。異なった「未来」を迎える可能性がまだ残っている。異なる選択をおこなうには、あまりに時間が足りないと言うか、まだ時間が残っていると言うかは、今からの私たち次第だ。

ただし、もう言い訳は許されない。原発を再稼働させるために、福島事故をなかったかのごとくして、子どもたちを汚染地に帰還させ、外国に原発を輸出するという今のやり方に別れを告げ、大きく舵を切らなければならない。人間を守るために。

取材の中で出会ったある少女は、生存率が数年と宣告されたが、やがて将来の夢を持った。生きる希望の力が、体を回復させた。私たちの体は不思議な力を蓄えている。その力を生かすには夢が必要だ。悪夢ではなく。生気に満ちた夢が。