
福島第一原発事故後、高濃度の放射能に覆われ、全村避難を余儀なくされた福島県飯舘村。極寒の村で、鎖につながれたまま飼い主を待ち続ける犬たちがいる。ペットの管理は飼い主の責任だとする県、補償の制度はないという東電、家に泊まることも許されない飼い主。あれから4年、「被災者」と見なされることのない動物だけが、時が止まった無人の村に取り残されている。
話/平山ガンマン(福光の家) 写真・文/丸井春(DAYS JAPAN)

家に残る犬たち
1月22日、昼間でも摂氏0度の飯舘村は、朝から雪が降り続いていた。
飯舘村は事故前、推定約1000匹の犬たちが飼われていた。今は約120匹がここに暮らす。残りの犬たちは飼い主とともに避難したか、長い月日の間に死んでいった。餓えや病気のほか、老朽化して崩壊した建物の下敷きになった犬、サルやタヌキに襲われた犬もいるという。
この日、私たちは、残された犬たちを見回り、定期的にフードを与えに回る平山ガンマンさんに同行させてもらった。人がいない村で、県道以外の道は除雪されていない。一軒の家の手前で車を止め、雪道を向かう。そこは、平山さんが飼い主と連絡を取り合い、定期的に犬の様子を見に行っている家だという。突然、「キャンキャンキャン!」と悲鳴のような鳴き声が響き渡る。こちらを見つけた茶色い犬が、身を乗り出し、鎖が引きちぎれんばかりに跳ね回っていた。尻尾を振り、平山さんに飛びつく犬。触れると、頭も背中も信じられないほど冷たかった。
器代わりの空っぽの炊飯釜に、平山さんが持参したフードを山盛りに入れる。「次はいつ来られるかわからないからね」。平山さんが語りかけるそばから、頭を突っ込むようにして食べ始める。空腹を我慢していたのだろう。それでも、平山さんが去ってしまうことを心配しているのか、チラチラとこちらをうかがっては頬張るのをやめ、じゃれついていく姿が切ない。水入れの水には氷がはっていた。

平山さんが背中をなでてやる。鳴き声が止むと、辺りは犬がごはんを食べるカリカリという音以外何も聞こえない。完全な静寂の中、数時間後にはまた長い夜がやってくる。家に灯りはつかない。帰り際、犬は吠えることなく、じっとこちらを見ていた。
その姿がたまらず、「いっそ放してあげたいと思うことはありませんか?」と聞いてみた。すると平山さんは「それは死を意味するよ」と答えた。2012年、各家に「犬は飼い主の責任でつないでおいてください、徘徊している犬は保健所に連れていきます」という内容の張り紙がされたという。「つまり、放されたとしても犬たちに行き場なんてないんですよ」
別の家では、家屋の裏手、山の裾野に作られた小屋に、母子だという2匹が1・5メートルほど離れてつながれていた。リードは短く、1メートルと少し。体を動かすと、ちょうど首が上がってしまうぐらいの長さしかない。ここでも、尻尾を振り、体中で平山さんの訪問を喜ぶ2匹。何度もこうやって身を乗り出しては吠え続けてきたのだろうか。2匹をつないでいる木の柱の鎖部分は、半分ほどが変色し、すり減っていた。小屋にはそれぞれ毛布が1枚。器は空っぽだった。散歩に行けないため、排泄物があちこちに残っている。過酷な環境に置かれながらも、人間がそばにいる一時、彼らは持て余したエネルギーを爆発させる。「遊んで遊んで!」とばかりに飛びついてくる。途方もなく孤独で単調な時の流れに身を置く彼らにとっては、平山さんや飼い主が来る数日のうちの数十分だけが、犬らしい無邪気さを見せられる時間なのかもしれない。
「吠えてくれるのはまだいい」と平山さんは言う。畑の奥にぽつんと建てられた2つの犬小屋。その中では、兄弟だという犬がそれぞれの小屋で丸まっていた。寒さからか体は震えている。「もうあの子はうつになっていると思います」と平山さん。2匹はこの日、とうとう鳴き声ひとつあげなかった。
昼から日没までに回れたのは5軒。「みんな暗い顔してる」。帰りの車中で平山さんはそうつぶやいた。

犬のシェルターを作る
平山さんは昨年2月、飯舘村役場近くに、犬たちのシェルター「福光(ふっこう)の家」を建設した。平山さんが飯舘村に入ったのは2012年。インターネットで、残された動物たちのことを知ったことがきっかけだった。仕事が休みの毎週土曜日に、自宅のある千葉県から村に通い、仲間とともに犬たちを見回り、フードや毛布を与え、60以上の小屋を作ったり修理したりした。しかし、東西約17キロもある村で、点在する家の120匹を見回るには限界がある。さらに事故から年月が経つにつれ、餌やりに入っていたボランティアも減り、病気などで命を落とす犬も増えた。死んだ兄弟犬のそばにたたずんでいる犬もいたが、所有者がいる犬に平山さんが手を出すことはできなかった。
彼らの心身はもう限界ではないのか。平山さんは、せめて飼い主がもとの家に戻ったり、新しい環境を見つけたりすることができるまで、犬たちをシェルターで預かろうと決めた。1軒の家が、それならばと、事故前に畑として使っていた土地を貸してくれた。30年勤続した会社は辞めた。
犬が残されている1軒1軒に、シェルターの詳細と自分の電話番号を書いた張り紙をし、飼い主からの電話を待つ。避難中の家族がいつ一時帰宅するかは分からないが、連絡を取る手段はそれしかない。電話が来るのは張り紙をした家の3分の1ほど。それも半年後という場合もある。預かりは無料だが、もちろん断られることもある。
「事故から4年。今残っている犬たちの飼い主さんというのは、せめて犬だけでも村にいて欲しいという強い思いを持っている方たちなんです」と平山さんは言う。「犬が家にいてくれることで、唯一まだ村とつながっていると思える」「一時帰宅した時に犬がいてくれるとうれしくて涙が出る」。飼い主にそう打ち明けられたこともある。「番犬なのだから家を守っていてほしい」と話す飼い主も少なくないという。
しかし、犬への愛情が強くとも、村にそう頻繁に戻ることは容易ではない。中には、連絡も取れず、犬の世話に戻っている様子が見られない家もあるというが、平山さんは「飼い主さんは責められない」と言う。飯舘村は事故後、福島市や伊達市などの仮設住宅に住民避難を促したが、緊急事態であるという理由でペットの同行は認められなかった。村の住民課によると、今も仮設住宅でのペットの飼育は認められていないという。「みんな、とにかく避難しろと言われて避難したんです。犬をこんな状態にしたいと望んだわけじゃない」(平山さん)
だからこそ、飼い主が一時帰宅した時にすぐに会いに来られるよう、シェルターは遠くではなく村内に必要だと思った。

東電の責任は
通常、10匹以上の動物を預かる際には、「第二種動物取扱業」の届け出が必要となる。平山さんも昨年2月、ボランティアに来てくれていた村の職員を通じて役場に申請を出したが、「トップに相談したが、前例がないのでだめだと言われた」という返事を受けた。今、小屋の建設費やフード、医療費はすべて寄付でまかなっている。
環境省は事故後、県内に緊急災害時動物救済本部を設置。7億円の義援金をもとに、主に20キロ圏内の迷い犬猫の保護活動を続けてきたが、その手は飯舘村には届かず、義援金が回ることもなかった。「風化されていくのは怖い。ここはまだ被災地、緊急事態なんです」と平山さんは言う。
東電はどうか。平山さんは3か月前、東電に電話を入れた。「無人の家で120匹がつながれている。何も補償はないのですか?」。1か月後に来た返事は短く、「今はそのような条例・規約はない」というものだった。
しかし、THEペット法塾代表の植田勝博弁護士は「(動物)愛護法の主旨からいえば、東電は、動物を生存の危機にさらす状況に置いたことへの責任を当然問われるべき」だと指摘する。「給餌給水をしない、衰弱させるという時点でそれは虐待であり犯罪です。飼い犬への責任は飼い主にありますが、今は、飼い主を所有者としての責任を果たせない状況に東電が追い込んでいるのですから、法倫理としてその責任を問うことはできるでしょう」。愛護法はまた、国や自治体に対して法の遵守の啓発をおこなうようにと謳っている。植田さんは、「民は現在、現地でボランティアをしていますから、官がそこに委託助成費を出すなどして、動物生存の保護施策を取ったり、必要となれば譲渡先確保などの命の保護をすることが愛護法のあるべき姿だと思います」と続ける。
飯舘村は2016年3月を帰還目標としているが、同村がおこなったアンケートでは、「避難指示が解除されれば村に帰りたい」と答えた村民はわずか12パーセントにとどまっている。
「先のことは何も分からないけれど、ギリギリで命をつないでいるような犬たちがここにはいるんです」と平山さんは言う。きょうもつながれた犬たちは静寂の村で夜を迎える。犬、飼い主、支援者へのサポートが早急に求められている。
