「日本とウラン鉱山」
日本は原発の燃料であるウランの100パーセントを輸入に頼っている。
輸入元はカナダ、ニジェール等だ。
これらの国のウラン鉱山と日本の関わりを見ていくと、
原子力産業の深い闇が浮かび上がってくる。
写真/パトリック・シャピュイ 文/デコート・豊崎アリサ
Photo by Patrick CHAPUIS Text by Alissa DESCOTES-TOYOSAKI
1.広島型原爆の材料はどこから来たか?
〈カナダ・「未亡人の村」と世界最大のウラン鉱山〉
広島に投下された原爆の材料は「ウラン」だった。
そのウランが自分たちが暮らす土地で採掘されたと知ったカナダの先住民は心を痛めた。だが、現在も世界最大のウラン鉱山では巨大企業が彼らを翻弄し続けている。
土地も労働力も奪われ
鉱山企業に翻弄される先住民
カナダのノースウェスト準州に位置するポート・ラジウムには、「未亡人の村」と呼ばれる先住民デネ族の村がある。1930年代に医療用ラジウムが産出されたここの鉱山では、42年から原爆用のウランも採掘された。デネ族の人々は、発掘作業に従事して被曝し、がん等で命を落としたが、自分たちの土地で採掘していた石が、のちに原爆になり十数万人もの命を奪ったと知った。98年、デネ族の首長や女性たちは広島を訪れ、過去を謝罪した――。
この話(注1)を聞き、私はカナダのウランと先住民の関わりについてもっと知りたいと思った。辿り着いたのは、サスカチュワン州の「ウラニウム・シティ」。第二次世界大戦後、米軍にウランを供給したカナダ最大の生産地だった。永久凍土と湖に囲まれた大自然の中に、33のウラン鉱山が存在し、5000人が住んでいたという。だが、70年にカナダが核拡散防止条約に署名すると、鉱山は閉鎖された。そして現在、町は人口70人余りのゴースト・タウンと化している。
ウラニウム・シティはいつか復活するかもしれない――。メティ(注2)のスティーブ・パウダーはそう思い、30年以上ウラン鉱山で働いていたが、今では一人でウランを探し、鉱脈を売っている(注3)。天然ウランを手にすると、放射能測定器のアラームが鳴った。「これは高品質ウラン。日本を含む世界中のウラン開発企業と取引し、高品質ウランの出る土地を売ってるよ」。家族を養っていくには、この仕事しかない。だが、カナダのウランが核兵器に使われたことを思うと、後ろめたい気持ちになる。「広島の後もアメリカは、1952年から63年まで原爆を作り続けた」 今でも同州は、世界最大手のウラン鉱山会社カメコが支配するカナダ最大の高品質ウランの採掘地で、関連企業が75社程ある。湖の底に眠るウランを取り出すと、放射能が放出され、水が汚染される。企業によって住んでいた土地が封鎖され、先住民は町へ追いやられた。だが、カメコは労働者不足を解消するため、先住民の若者獲得に余念がない。先住民保留地ビューバルに住む元教師マリウス・ポール(注4)は、「学校には、カメコによって鉱山労働者育成の教育プログラムが提供され、教科書にはカメコのロゴも付いている。これに反対したら、教職を失う」と語る。
250キロも続くウラン道にある、世界最大のウラン鉱山マッカーサー・リバーを、マリウスが案内してくれた。警備員に「ブルーベリーを採りに来た」と言うと、入場を許可された。「鉱山と先住民が共存できると言いたいから、カメコはわざと許可するのさ。おっかない企業だね!」と苦笑するマリウス。労働者は深さ600メートルの坑道に潜って作業しているため、地上には人気(ひと け)がない。施設内に入ると、巨大なプラズマテレビがあるロビーや豪華なビュッフェ式の食堂に圧倒された。社員891人のうち、51パーセントは先住民だ。「カナダのウランは世界中の原発の燃料や劣化ウラン弾に加工されている。僕たちのコミュニティはこれ以上、核の餌食になりたくない」とマリウスは訴える。
(注1)Peter Blow監督のドキュメンタリー『Village of Widows(未亡人の村)』(Lindum Films製作、1999年) (注2)カナダの先住民の一つ。カナダ・インディアンとヨーロッパ人の混血子孫。 (注3)カナダではゴールドラッシュ時代からある「フリー・マイニング」という鉱業権が存在し、ネットで探鉱用の土地を誰でも購入することができる。スティーブは自分で見つけたウランの採れる土地を売って生計を立てている。 (注4)マリウスは、カメコが鉱山労働者育成の教育プログラムを提供する学校で働いていたが、放射性廃棄物埋め立て地建設反対運動「コミッティー・フォー・フューチャー・ジェネレーション」に参加したせいで、解雇された。
2.原発の燃料はどこから来るの?
〈ニジェールのウラン鉱山〉
日本の原発が再稼働すると、
サハラ砂漠が汚染される!?
何千年も遊牧生活を送ってきたトゥアレグ族が、
ウラン鉱山汚染の実態を証言する。
福島からサハラ砂漠へ
仏原発の後背地に潜入
そもそも私がウラン鉱山に興味を持ったのは、2011年に福島第一原発事故を取材したからだった。それまで核の恐ろしさをまったく知らなかった私は、長年サハラ砂漠をラクダに乗って旅していた。「砂漠の民」と呼ばれる遊牧民、トゥアレグ族が1000年前から営む塩キャラバンに同行し、自給自足で生活する人たちの生命力と自由に魅せられていた。しかし震災後、あることを思い出した。ニジェールのサハラ砂漠には、アフリカ最大のウラン鉱山があった――。
ウラン鉱山はトゥアレグ族に一体どのような影響を及ぼしてきたのか、急に不安にかられた。そうして14年9月、「ニジェールのウラン鉱山と遊牧民の現況」をテーマに、取材すると決めた。
8年ぶりに訪れたニジェールのサハラ砂漠は、外務省から「退避勧告」が出される程の危険地域になっていた。ニジェールでは07年、ウラン生産の利益を要求するトゥアレグ族の武装組織が反乱を起こし、10年までニジェール軍との激しい紛争が続いた。さらに10年、フランスに本社を置く世界最大の原子力企業、アレヴァの社員や関係者7人が「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ(AQIM)」に誘拐される事件が起きていた。
そのため、私と同行のフォトグラファーは、ニジェールの兵隊7人にエスコートされながら、機関銃付きのピックアップトラックで、サハラ砂漠のど真ん中にあるウランの町、アーリットに入った。
アレヴァは1971年から、アーリットで2つのウラン鉱山を開発してきた。フランスの電力消費の3分の1を供給するアーリット鉱山とアクータ鉱山は、「原発王国フランス」の原発58基を維持するために欠かせない場所だった。
だが、フランス人のほとんどがニジェールという国の存在すら知らない。逆にニジェールでは、アレヴァのことは皆知っている。年間3000トンのウラン(イエローケーキ)を、アーリットからベナンのコトヌー港まで運搬するため、アレヴァは「ウランのルート」と呼ばれる2000キロもの道路を造った。しかしそれは、地元の人には「ロバでも事故(じ こ)る“悪夢のルート〟」として知られていた。何十年も補修されていない凸凹の道路は、いつウランを載せたトラックがひっくり返ってもおかしくない。
アゼリック鉱山の近くにあったラクダの死骸。先住民たちは、「ウラン鉱山から出た汚染水を飲んで死んだのだろう」と証言する。2014年9月23日
「第2のパリ」と呼ばれた
ウランの町の荒廃
約11万人が住むアーリットは悲惨な状況だ。町には、電気も水道もほとんどない。住民は市場で売られているウラン鉱山で使われていた機材をリサイクルし、椅子や調理器具をつくっているため、被曝している(注1)。
実は1980年代、アーリットの2つの鉱山は、世界のウランの需要の40パーセントをまかなっていた。そのためアフリカでは、仕事も娯楽も溢れる「第2のパリ」として知られていた。多くの労働者が、カメルーン、ナイジェリア、ベナンなどからやって来た。アレヴァのフランス人職員と家族は、アーリットの高級住宅街に住んでいた。そこには、日本人もいた。
「当時のアーリットは、ファーストクラスの暮らしだったわ」と思い出を語る福田英子さん。彼女は1978年から2年間、アーリット地方のアファストに住んでいた。夫はアクータ鉱山に25パーセントの資本参加をしている日本の民間企業「海外ウラン資源開発株式会社(OURD)」から派遣されたエンジニアだった。現在、東京の芝公園に本社があるOURDは、ニジェールやカナダからのウラン輸入をおもな事業としているが、なんと、同じ場所に在日本ニジェール名誉領事館が置かれ、OURDの社長が名誉領事を兼任している。
86年のチェルノブイリ原発事故でウラン価格が暴落し、アーリットの外国人は帰国した。だが、ウランの生産は続いている。現在のアーリットには、約2400人の鉱山労働者が電気や舗装道路、病院、レストラン等の設備が整っている住宅地に住む。しかしその他の地区は、電気もなく闇に包まれている。
(注1)フランスの独立放射能調査情報委員会(CRIIRAD)によると、2003年に市場で売られていた、鉱山から出た鉄パイプからは、23万5000ベクレル/キロのラジウム226が検出された。
遊牧民キャンプを蝕む
放射能汚染
2003年、フランスの独立放射能調査情報委員会(CRIIRAD)が現地調査をおこなうとアーリットの住民は、急に「ラディアシィオン(フランス語で「放射能」の意味)」という言葉に目覚めた。09年に国際環境NGO「グリーンピース」の現地調査があり、鉱山の外に放射能汚染された金属1600トン、放射性廃棄物3500万トンが放置されているのを発見したのだ。そこから発散される高濃度ラドンガスが、人々を死に至らしめる、呼吸器系の病気の原因だった(注2)。
アーリットから約30キロにあるタラックは、かつて私も何度も訪れた。昔は牧草豊かな地方だった。しかし現在は荒れ地になり、遊牧民はひどい貧困に陥っている。その理由を聞くと、「雨が降っても草が生えないから」という。彼らの目の前で起きている「砂漠化」は、ウラン鉱山が2700億リットルもの地下水を汲み上げていたことと関連していた。
このまま大量の水の消費を続けると、砂漠の生態系は50年もたないといわれている(注3)。そして水は減少しているだけでなく、汚染されていた。砂漠の風がまき散らす放射能、地下水が運ぶ化学物質などは、周辺の遊牧民キャンプまで来ていた。
「ここテダハランの井戸の水を飲むと、ロバの胃がふくらみ、急死する。ラクダは力をなくして立てなくなる」と話す、トゥアレグ族のアファダ・カルシャン。彼が飼う家畜の群れは、3分の1が死んだ。アファダは50年間牧畜をしているが、最近の家畜は、3本足だったり、目がひとつだったり、肛門がない状態で生まれてくると続ける。
家畜だけでなく、人間も被曝していた。アネケは遊牧民キャンプから2日かけて歩き、アーリットの病院まで2人の娘を連れて行った。当時8歳だった娘たちは、筋肉がまったく成長しない病気に苦しみ、身体はまるで2歳児のようだった。しかし、「ここは鉱山労働者のための病院だ」と言われ、診察を断られた。ちなみに、ウラン鉱山を運営するアレヴァが経営するこの病院は、「鉱山労働と病気の因果関係は一切ない」という診断を、45年間し続けている。
結局、アネケの娘たちは死んだ。その後、彼の再婚相手が産んだ赤ん坊も身体に障がいがあった。だがアネケは、もう2度と病院に子どもを連れて行くことはなかった。
皮肉にも、アネケは現在アーリット鉱山が建っているアーリという牧草地で生まれた。土地の所有権を持たない遊牧民が住む場所に鉱山を作るのはとても簡単だ。国家に「無人地帯」としか見なされないアフリカのサハラ、アジアのゴビ、オーストラリアなどの世界中の砂漠には、ウラン資源が溢れていた。そこで暮らす人たちは、永遠に残る放射能汚染にともなう、彼らの文化の破壊にも向き合っていた。しかし、先進国の人たちは、原発や軍事プログラムのために輸出されているウランがどこから来ているのか、どれほどの被害を与えているのか、ほとんど知らない。
(注2)アーリットの呼吸器系の病気の発症率は、ニジェール平均の2倍高い。アーリットに関するデータは全て、グリーンピースによる調査レポート「Left in the dust」を参照。(注3)砂漠の化石層の水を再生するには100万年がかかり、その70%がウラン鉱山によって、すでに使用されてしまった。
その多くは、ニジェール南部か近隣国の出身者だ。2014年9月15日
鉱山はいらない!
操業停止に追い込んだ闘い
アーリットから南に200キロ行くと、地中に残された海水が地下水となった「化石水」が豊富に出る、イハゼール渓谷が広がる。緑豊かな牧草地に、ラクダ、羊、ロバ、山羊、コブ牛が放牧されている理想郷だ。昔から、ここのテギダム・ティシムント塩田では雨期が終ると、トゥアレグ族とプール族がミネラルたっぷりの塩田のまわりで家畜を放牧する。
その塩田の5キロ先にも、もうひとつのウラン鉱山がある。2007年から「中国核工場集団公司(CNNC)」が運営しているアゼリック鉱山だ。たった7年間で汚染が急速に進み、鉱山の周辺には、家畜の死体がたくさんあった。
鉱山からは家畜や人間が飲む水源にまで廃水が流され、放射性廃棄物置き場には柵がされなかったため、家畜が入り被曝した。トゥアレグ族のアブドゥルカデール・アリフナは、「ここで何が起きているのか誰も知らない! まるでグアンタナモだ!」と、怒りをあらわにした。そして、今までジャーナリストも来たことがないと訴えた。ニジェール最大の牧畜地帯がこのような状態になっていたことに私も驚いた。
実はアゼリックでは、1979年から日本企業「国際資源株式会社(IRSA)」がウラン鉱石の探査をしていた。鉱山を造っても採算が合わないと判断したIRSAは去ったが、約30年後、同じ場所に来たのは中国人だった。IRSAが残していった調査跡では、何も知らない住民が井戸を掘った。「僕も子どもの頃、ここで放射能汚染された水を汲んで、ロバに積んで配っていた」とアリフナが回想する。だが彼も、2008年頃から家畜がバタバタと死ぬ姿を見るまで、放射能の危険性について気づかなかった。
アリフナは故郷と貴重な塩田をどうしたら守れるのかと考え、「ウグブール・ウンファス(トゥアレグ語で「命を守る」の意味)」というNPOを立ち上げた。目的はウラン鉱山の「閉山」だ。驚くことに、アリフナも含めて50人のメンバーのほとんどが、鉱山で働いていたトゥアレグ族の男性たちだった。「仕事を失くしても平気。僕らは前の暮らしに戻りたい、もう鉱山企業には出て行ってほしい」。金より命の方が大事という彼らの意志は、とても強かった。
*
実はこの取材に出る前、私は撮影許可を得るために、ウランのことは黙って、「トゥアレグ族の雨季祭」をテーマにすると申請していた。しかし、アレヴァの鉱山施設に近づき、途中で目的がバレてフランス外務省から電話を受け、軍事エスコートの監視下に置かれた。その結果、アゼリックに着く頃には、移動はほとんど禁止されてしまった。だが、アリフナたちが私たちの代わりにアイフォンで写真を撮ってくれたり、夜に私を鉱山まで導き、潜入させてくれたりした。
そのおかげで、動物が飲む鉱山の近くの水と放射性廃棄物の見本を採ることができた。それらをCRIIRADに送ったところ、水のウラン含有量は世界保健機関の基準の200倍、放射性廃棄物は10万ベクレル/キロの値が検出され、内部被曝の危険性はとても深刻なものだと判断された。
この結果はフランスの雑誌「GEO」に掲載された。一連の取材は、同国で2015年の「調査報道賞」を受賞し、国際組織やニジェールで反響を呼んだ。そして掲載の2か月後、アゼリック鉱山は「技術上の作業停止」という理由で、現在に至るまでウランの生産を止めている。
ウラン鉱山再開を左右する
日本の原発再稼働
ちなみに、2011年以降、世界中のウラン産業は苦境に立たされている。それは、チェルノブイリ以降最大となる原発事故が日本で起きたからだ。事故後に日本の原発54基が停止したため、世界のウラン価格は62パーセントも暴落した。その結果、15年3月にアレヴァがニジェールに新しく作ったアフリカ最大のウラン鉱山イムラレンは、ほとんどの社員を解雇し、運転開始を20年に延期した。鉱山建設により放牧ができなくなった代わりに、鉱山での職を与えられたチェッティン・タラット村の若者約300人も、この延期に伴い、解雇された。
しかし、在ニジェール・アレヴァの代表者セルジュ・マルティネズは「日本の原発が再稼働すれば、世界のウラン価格は上がり、ウラン鉱山も運転を再開する」と言ってはばからない。私にはそれが、「原子力エネルギー産業は、人の命と遊ぶ株式市場だよ」と言っているように聞こえた。私は日本で原発を再稼働させないためにずっと闘っている人たちのことを思い出し、胸が熱くなった。ウラン採掘がなくなれば、原発も核兵器もなくなる。そして大自然で遊牧民が生き残る――。その夢を見ながら、世界中の「無人地帯」で、「ウラン鉱山と先住民」の取材をやり続ける。
遊牧民の住居の背後には、フランス企業アレヴァのイムラレン鉱山が見える。鉱山の周りに30㎢の安全地帯を作った結果、家畜は放牧できなくなった。2014年9月20日
パトリック・シャピュイ
フランス・トゥールーズ生まれ。ドキュメンタリー・フォトグラファー。1987年にフォトエージェンシー「キーストーン」に参加。90年代には、「ガンマ」に参加。GEOやナショナルジオグラフィック、パリ・マッチ等に作品を発表。
デコート・豊崎アリサ
パリ生まれの日仏ライター、ジャーナリスト、写真家、ドキュメンタリー監督。サハラ砂漠の遊牧生活を支援する団体「サハラ・エリキ」主宰。「ウランと先住民」の連続取材の他、ニジェールのトゥアレグ族が営む塩キャラバンに同行し、撮影・監督したドキュメンタリー映画『Caravan to the Future』を日本でも順次公開予定。