
あの日、小学校1年生だった汐凪(ゆうな)さんはお気に入りの水色のランドセルを背負い小学校に向かった。午後、祖父と自宅に戻ったところを津波に襲われた。翌日早朝、福島第一原発がある大熊町には避難指示が出され、町は閉ざされ、捜索はそれから1か月以上おこなわれなかった。原発が爆発し、大熊町は高濃度の放射能に汚染されたからだ。限られた回数だけ許される一時帰宅の機会を使い、娘を捜し続ける父。昨年12月、マフラーとともに汐凪さんの遺骨の一部がようやく見つかった。汐凪さんが生まれ、遊んだ故郷は中間貯蔵施設になる。
写真・文/尾崎孝史 Photo & Text by Takashi OZAKI

巨大津波に襲われ、目に見えない放射能に閉ざされた
無人の地で、父は6年にもわたって娘の遺骨を捜し続けた。
「娘は本当に生きて救い出せなかったのか……」
捜索は、放射能に何度も阻まれ続けた。
2011年3月11日
福島県大熊町で津波に流され、行方不明になっていた木村汐凪さん(当時7歳)のことを私が知ったのは、事故から2か月が経った2011年5月、汐凪さんの父・木村紀夫さんが役場に張り出した捜索チラシがきっかけだった。
「捜しています!! 大熊町で家族3人が行方不明です」
捜索チラシには、祖父と母のとなりでにっこり微笑む汐凪さんの姿があった。その写真を見た私は、高濃度の放射能に覆われ、人が自由に立ち入れなくなった大熊町の中で、いまだ救出を待つ人がいるという現実に言葉を失った。
津波が町を襲った時、紀夫さんは隣町の養豚場で働いていた。町に戻り、土台だけになった自宅や避難所を捜しまわったが、紀夫さんの父・王太郎(わ た ろう)さん(当時77歳)と妻・深雪(み ゆき)さん(同37歳)、次女・汐凪ちゃんの姿が見えず、連絡も取れない。紀夫さんはひとり、夜が明けるまで3人を捜し続けた。
3月11日の地震直後、木村さん一家が住む自宅から約3・6キロにある福島第一原発の1~3号機が緊急停止。1時間後に電源喪失を起こした。
翌12日早朝、大熊町全域に避難指示が出された。なんとか津波を逃れた紀夫さんの母と長女は避難所で夜を明かしていた。捜索を諦めるのか、生き残った家族を放置して捜索を続けるのか。究極の選択の中、紀夫さんは2人が待つ避難所へ向かい、追われるように大熊町を後にした。「今は生きている者の命が大事だぞ」という区長の言葉が背中を押した。
この日、1号機で水素爆発が起き、大量の放射能が放出された。翌13日には3号機から放射性物質を含む蒸気の放出が始まり、14日に3号機が、15日には2号機4号機が水素爆発を起こした。町は高濃度の放射能に汚染され、戻れぬ地になった。
4月、大熊町の全域を含む原発20キロ圏は警戒区域に指定された。住民ですら許可なく立ち入る者は処罰の対象になった。警戒区域の境界には鉄製のバリケードが置かれ、自宅にも近寄ることすらできない。紀夫さんは警戒区域周辺で捜索を続けていたが、何度も行く手を阻まれた。「バリケードを見たときは現実を突きつけられました。家族を捜してやれないんだな、と」



模索を続けた捜索活動
あの日、汐凪さんは、祖父・王太郎さんと一緒に自宅に戻ったところを津波に襲われた。母・深雪さんもいったん自宅に帰った後に津波に遭ったとみられている。4月29日、王太郎さんは自宅から南へ約2 0 0メートルほどの田んぼで、深雪さんは南に約40キロほど離れた洋上で発見された。
震災後、紀夫さんがようやく町に入れたのは6月になってから。5月下旬から始まった自衛隊による捜索に立ち会うためだった。その後「一時帰宅」の制度が始まるが、それも年に数度の立ち入りが許されるだけ。捜索できる時間はあまりに少ない。
一時帰宅が許された日、紀夫さんは放射能から身を守るための防護服で全身を覆い、一人で海岸のがれきを払いのけたり、テトラポッドの間をのぞき込むような捜索を続けた。
自衛隊による捜索は開始からわずか2週間で打ち切られた。警察や消防団の捜索も毎月11日などに限定されていった。
紀夫さんは2013年、ボランティアを募り、本格的な捜索を始めた。彼らの初めての捜索は富岡町の仏浜だった。自宅から南へ6キロのところにあるその浜は砂地が続いている。そこを大人4人が横一列に並び、砂利の中に骨がないか目視しながら進んだ。
「人の骨には気泡があるらしい」
「これは魚の骨だな」
目ぼしいものを拾いながら、遊歩道から波打ち際までゆっくりと進む。津波で地面が混ぜ返されたことを考えると、浜通りの海岸すべてを掘り起こして調べる必要がある。いったい何十年かかるのか……。気が遠くなる思いがした。
3・11から5年。年に30日となった一時帰宅の機会を使って捜索は続いた。酷暑の夏も大雪の冬も、許された約5時間、紀夫さんと仲間たちはスコップを手にがれきを掘り続けた。汐凪さんの体操服、深雪さんのカーディガンなど見つかったものは数十点。しかし、汐凪さんの遺骨はどうしても見つからなかった。
事態を動かした
中間貯蔵施設の足音
電信柱などのがれきを取り除きたいが、町は重機の使用を認めてくれない」。昨年、紀夫さんは、そんな悩みをある手段を講じて解決することにした。
アドバイスをくれたのは木村家と顔なじみの町議さんだった。木村さん一家がかつて暮らしていた自宅周辺は、福島県内で集められた汚染土などを処理するための中間貯蔵施設の候補地になっている。施設の本格着工を前に、重機を入れて大掛かりな捜索をしてもらってはどうか。そんな提案だった。
11月9日、環境省と中間貯蔵施設の建設に関わる作業員による捜索が始まった。そして20日には紀夫さんと仲間も加わり、総勢百人ほどの体制になった。これまで人力では動かせなかったがれきなどがようやく撤去されていく。汐凪さんが津波に襲われた時に背負っていたとみられる水色のランドセルが見つかった。


「汐凪が帰ってきました」
大掛かりな捜索がはじまって2週間がたった12月9日、がれきの下から、あの日汐凪さんが身につけていたとみられるマフラーが発見された。見つけた女性が土を払おうとしたところ、中からパラパラっと骨のようなものが出てきたという。それが大熊町最後の行方不明者、汐凪さん発見の瞬間だった。
11日、紀夫さんから知らせが届いた。
「今日、治療して詰め物のある奥歯がついた左顎の骨が見つかりました。人間の骨であることは明白で、だとしたら汐凪以外のものであることは考えられません。汐凪が帰ってきました」
そして22日夕方、DNA鑑定を進めていた福島県警から紀夫さんに知らせが入った。骨は汐凪さんのものだった。
2016年大晦日の正午過ぎ。双葉警察署臨時庁舎の正面玄関から、姉の舞雪(ま ゆ)さん(15)が骨箱に入った汐凪さんを抱えて出てきた。「歯に治療した跡があったので、汐凪だとわかりました」と話してくれた。 紀夫さんは運転席の横に汐凪さんを置き、骨箱にシートベルトをかけた。休日には、家族そろってレジャー施設に行くのを楽しみにしていた紀夫さん。車で向かった先は、深雪さんが発見されたいわき市の海岸だった。そこも家族でドライブに行った定番のコースだった。
震災から2123日。束の間、家族そろっての日常が戻ったかのようだった。
救出の可能性を奪った
原発事故
肉じゃがが好物で、テニスの選手になるのが夢だった汐凪さん。足の不自由なクラスメイトのことを気遣うなど、先生にも頼りにされる存在だった。生きているうちに救い出す可能性はなかったのか。
震災の翌朝、町役場には100名ほどの消防団員が行方不明者の情報を得て待機していた。捜索をおこなうための団員だった。しかし5時45分、原発事故による放射線量の上昇を受け、政府から全町避難の指示が出た。捜索にあたるはずだった団員は、急遽、1万1千人の住民を避難させる役目を負わされた。
避難完了予定の8時前、木村家のある熊川地区では、8名ほどの消防団員が捜索活動をおこなった。木村家の敷地から南へ、「おーい、おーい」と声を出して進んでいたとき、第四分団の猪狩広さんは人の声らしきものを耳にしたという。
「『おー』という声が聞こえたような気がしたんです。私を含めて二人の団員が。私は王太郎さんだと思いました」
避難の時刻が迫り、団員たちは後ろ髪を引かれる思いで現場をあとにした。翌月、その近くから王太郎さんの遺体が見つかった。汐凪さんが見つかったのは、そこからわずか50メートルほどのところだった。
「結局、汐凪は原発事故の犠牲になって、見捨てられたような気がします。正直、骨が発見されて嬉しいという気持ちにはなれません」と紀夫さんは話す。
捜索にあたっていた作業員の一人は、発見された骨を目にする紀夫さんの表情を正視できなかったという。
「僕にも汐凪ちゃんと同じくらいの歳の子どもがいるもので。やっぱり見つかったときはショックが大きいでしょうね」


汐凪さんの発見は
なぜ遅れたのか
福島第一原発事故によって、高濃度の放射能汚染地帯となった原発周辺。原発から半径4キロ地点にある大熊町熊川地区の捜索は遅れに遅れた。しかも捜索期間はたった2週間。この際、大量のがれきが移動させられた。
「これだけの広さのところを2週間で捜索するなんて無理でしょう。6月4日に始まった一時帰宅に間にあわせるためにがれきを集積するのが目的だったのではないでしょうか」と紀夫さんは振り返る。
12月26日現在、発見された汐凪さんの骨は42個。それでも、ほんの一部にすぎないという。がれきの移動でバラバラにされてしまい、さらにその上に別のがれきが積み上げられた……。汐凪さんの発見がかくも遅れてしまった理由、それが少しずつ明らかになってきた。
原発の町の少女が
問いかけるもの
汐凪さんが見つかった今、紀夫さんは何を思うのか。
「頭から離れないのは、東電の幹部が私に言った言葉です。『電気を使いたい人がいるから原発が必要なんです』。本当にその通りですよ。だから僕は電気に頼る暮らしを見直していきたい。汐凪が6年近くも出てこなかったのは、私たちにとって本当に大切なものは何か伝えたかったからではないでしょうか。私はそう思います」
見つかったマフラーは姉とおそろいのデザインで、汐凪さんのものはピンク色、ディズニーのキャラクターが付いていた。
「マフラーって、人が身につけるものじゃないですか。それががれきの中から出てくるなんて。震災から2か月後、自衛隊が捜索に入った時に、じっくりと捜すことができていればね……」
紀夫さんはそう語った。