DAYS JAPAN 2015年12月号(下段中央)で掲載した写真と同じ場所で撮影。ここの線量はどのぐらいか、この現象は原発事故とは関係のないことなのか、さらにこの車はどういう車なのか取材した。福島県富岡町。2016年2月26日 Photo by Ryuichi HIROKAWA
DAYS JAPAN 2015年12月号(下段中央)で掲載した写真と同じ場所で撮影。ここの線量はどのぐらいか、この現象は原発事故とは関係のないことなのか、さらにこの車はどういう車なのか取材した。福島県富岡町。2016年2月26日 Photo by Ryuichi HIROKAWA

本誌昨年12月号の企画記事「原発事故が奪った村」では、事故後人々が去った町で、当時のまま時間がとまった風景を紹介した。そのうちの1枚のキャプションに誤りがあったことについては前号で「訂正とお詫び」をさせていただいたが、その後、福島民友新聞が本誌の誤りを指摘の上、「福島をおとしめるな」という記事を掲載。その後、同紙の編集長から「(該当の写真は)東日本大震災・東電福島第一原発事故による被害とは全く関係がありません」という回答を得た。そうだろうか。検証した。

写真・文/広河隆一、DAYS JAPAN編集部

Photo & Text by Ryuichi HIROKAWA

 

DAYS JAPANは福島の人々を「おとしめた」のか

DAYS JAPANは、2015年12月号で「原発事故が奪った村――どこが収束か。事故5年目を迎える福島」というタイトルのもと、ポーランドの写真家ポドニエンスキー氏の写真と文を掲載した。写真は2015年9月に撮影されたもので、リード文に私たちは、次のように書いた。

「忘れてはいけない。私たちは『安全だ』『安心だ』と言われていた原発の事故によって、多くの町を失い、人々の営みを奪われた。そして政府は、あたかもこれらの事故被害などなかったように帰還を進め、再稼働に躍起になっていることを」

掲載した写真は、原発事故後に警戒区域となった場所で、車が放置されている写真、雑草が生い茂る小学校、床が陥没した体育館、雑草の中の車のアップ、荒廃した酒屋、事故後から手を加えられていないスーパーマーケットなどの写真である。

この中で、富岡町に置かれていた車の写真を紹介する際、写真家のホームページの英文キャプションに従って、「人々が避難する時に乗り捨てていった車」と記載したが、実際は事故前からそこに置かれていた車だったことが判明した。同時に、当初英文のキャプションが「FUTABA」となっていたため、それを双葉郡富岡町ではなく、双葉郡双葉町だと勘違いして記載した。これも読者からの指摘によって誤りが発覚後、写真家に確認し、公式ホームページに訂正とお詫びと、誤りの経緯を掲載し、さらに2月20日発売の3月号にも同訂正文を掲載した。

2016年2月6日付の福島民友記事
2016年2月6日付の福島民友記事

この記事に対して、訂正発表後の2016年2月6日、福島民友新聞社は、「【復興の道標・ ゆがみの構図】福島をおとしめるな 努力続ける福島県民」と題する記事を掲載し、DAYS JAPAN2015年12月号の表紙と誤りのあった該当ページを写真で紹介した。その記事には「原発反対を主張するのはいいが、その主張のために福島をおとしめるのは、どうなのか」と、記事中に登場する伊達市の農業ベンチャー「マクタアメニティ」の幕田武広社長の言葉で締めくくられていた。

そこで私たちは、2016年2月29日に、福島民友新聞社菅野篤編集局長宛に質問状を送った。その質問と同編集局長からの回答を全文紹介する(次ページ上段)。さらに、私たちは事故検証のため、富岡町役場にも取材をおこなったため、それも後述する。

福島民友からの回答について

福島民友からの回答福島民友新聞社からの回答を見て驚いたのは、質問1「私たちは『どのように』福島県民の皆さまをおとしめてしまったのか具体的にご教示ください」への回答冒頭の、「月刊誌「DAYS JAPAN」12月号の企画記事・写真「原発事故が奪った村」は、東日本大震災・東電福島第1原発事故による被害とは全く関係がありません」という文章である。

問題の写真のキャプションには、「毎時6・7マイクロシーベルトの放射線量が記録されている」とある。さらにこの記事中で紹介している写真は、学校もスーパーも体育館も酒屋もすべて、放射線量が高いために人が戻れず、当時のまま放置されている姿である。福島民友新聞社はこの汚染も「事故による被害とは全く関係がありません」という公式見解を述べられたことになる。なぜそう言えるのだろうか?

これらのことを考えると、復興を望む気持ちは理解できるとしても、結果的に事故を風化させ、原発を推進させる業界の意図にのっとった紙面作りをされていると思われても仕方がないと考える。それがあるべき復興の姿だろうか。

同じ場所で測定した放射能測定値。最大で毎時6.64マイクロシーベルトを記録した。地上1メートル。測定器はホットスポットファインダー。測定者・広河隆一。2016年2月26日
同じ場所で測定した放射能測定値。最大で毎時6.64マイクロシーベルトを記録した。地上1メートル。測定器はホットスポットファインダー。測定者・広河隆一。2016年2月26日

2016年2月25日、私は念のためこの場所に行き、測定した。富岡町の国道6号線から県道36号線に入ってすぐの場所である。その結果は、この日も、最大で毎時6・64マイクロシーベルトの放射線量を計測した(測定高地上1メートル、測定器はホットスポットファインダーを使用)。

福島民友新聞社は、DAYS JAPANの記事のすべてが誤りで、事故とは関係ないと断定される前に、ジャーナリズムの姿勢として、放射線量が高いか低いかぐらいは自社で取材されるのが当然ではないか。それとも毎時6マイクロシーベルトという値は、福島民友新聞社にとっては、取るに足らない値で、原発事故の影響ではないと言われるのだろうか。それが福島県を代表する新聞の考えなのだろうか。

これは事故当時、国が状況を楽観視して、根拠もなく「安全だ」と繰り返していた姿勢と全く同じと言わざるを得ない。この姿勢こそ住民に危険をもたらすのではないだろうか。

編集局長はおそらく、私たちの記事の1枚の写真を見られただけで、記事全体は見られていないのに、記事全体を批判されたのだろうと推察する。そうでなければ、この企画記事全体が「東日本大震災・東電福島第1原発事故による被害とは全く関係ありません」と書かれた理由がわからない。

富岡町役場はどう見るか

DAYS JAPAN2015年12月号の同企画内では、浪江町や双葉町の事故後に時が止まったままの風景も紹介した
DAYS JAPAN2015年12月号の同企画内では、浪江町や双葉町の事故後に時が止まったままの風景も紹介した

さて、私たちの記事は、地元の住民にどのような迷惑をかけたのだろうか。それを聞くために2月26日、広報課の置かれている郡山市の富岡町役場郡山事務所を訪れた(事前に該当号と、訂正とお詫びを掲載した3月号をお送りしておいた)。

私は事故後の5年間に富岡町を7〜8回訪れているが、事故直後の2011年3月に、最も多くの富岡町避難民の方々と出会っている。3月13日、双葉町で、毎時100マイクロシーベルトまで測定できる私の測定器も、毎時1000マイクロシーベルトまで測れる友人の測定器もともに振り切れたほどの高濃度の放射線を測定した後、双葉町に戻って来ようとする人々の車を止めて、測定値を示し、放射能は国が発表しているような安全なレベルでは決してなく、「ただちに健康に影響が出ない」などというのんきな事態ではないと知らせた。そして双葉町に向かう車にUターンしてもらったあと、川内村役場に駆け付けた。なぜ川内村役場かというと、そのとき、川内村には前日から富岡町の住民約6000〜8000人が避難してきていたからだ。そこで今度は川内村役場の人に双葉町の測定値を知らせた後、私は田村市の市役所を訪れて同じことを伝えた。

川内村から村民と富岡町民が避難したのは、その3日後の16日である。それを新聞で知って、私はほっとした。しかしこの時、私のこの行為に対して、「そんなはずはない」、「測定機が故障しているのではないか」、「不安を煽るな」という声がネット上に現れた。東電がこの時隠していた数値を発表したのは、2か月後の5月後半で、それは1500マイクロシーベルトというとんでもない値だった。今回も5年前と同じような「不安を煽るな」というバッシングがネット上に現れた。

事故当時、私が測定値を知らせたことで、迷惑をかけられたと感じている人もいるかもしれない。逃げなくてもいいのに、と考えている人にとっては、私が避難を進めるためになんらかの役割を果たしたことは不愉快に違いない。そこで今回の記事のこともあり、富岡町役場の人に話を聞くことにしたのである。対応していただいたのは総務課課長補佐の遠藤博生さんと、同課秘書広報係長の松本真樹さんである。

広河:私は今回福島民友が私たちの記事に対して「福島をおとしめるな」と書いた現場に行きましたが、あそこは車の廃車場、あるいは廃棄場ですか。プレートがない車とある車が置かれていましたが。

富岡町:調べましたら、離れたところにある整備工場さんが、車を置いていた保管場所でした。

広河:しかしあの道には、「ここは車の廃棄場ではありません」というような看板があったんですが。たぶん車がそこに置いてあるのを見て、車を捨てるのに利用した人たちもいたのかなと思いました。

私たちはこの写真を撮ったポーランド人カメラマンに、なぜ間違えたのか問い合わせました。彼は近くを通りかかった人と、それから警察官に聞いた、と言いました。彼は警察官だったらこの辺りのことを知っていると思ったんでしょうけれども、警察官は日本中から福島に来ていますから、土地の事情がわからない警察官は、車を捨てて逃げたんじゃないですか、みたいなニュアンスで言ったか、カメラマンがそのように聞きとったのではないかと思います。だから、彼はいちおう取材しているんですよね。

このカメラマンには悪意がなかったと思いますし、人々を不安にさせようという意思もなかったと思います。

富岡町:たぶん、現状を知らせたいという気持ちでやられていると思いますけども。

広河:私たちの記事がどれだけの弊害を人々や町にもたらしたのか、その辺りのことを伺えますか。

富岡町:この記事について、町に対して町民から問い合わせがあったということはありません。

広河:実は、被災地の放射能は安全なのに、さも危険なように私たちが書き立てているとネットで言う人がいます。汚染も放射能も気にしなくていいのに、危険を煽る人たちは、復興のためにマイナスで、福島をおとしめる人だと考えているようです。私たちは私たちの記事が、どのような害をもたらしたか検証すると読者にお約束して、その結果お話をお伺いに来た次第です。この記事は実害があると思われますか。

富岡町:そうですね。ただ、富岡町民がこの記事を目にしたとして、それほど影響はないかな、と。

広河:間違いは間違いとしてちゃんと訂正しなきゃいけない。だからお詫びをした。しかし、この記事が本当に人々にとって実害があり、福島の人をおとしめると考える人がいるとは、到底想像できませんでした。本当に「おとしめている」ことになるなら、単なるキャプションの間違いではすみません。しかし私たちとしては、根も葉もない噂によって風評被害を起こしたと言われたり、福島をおとしめると言われても、納得しにくいことでした。

富岡町:そういった面についてはおそらく、大丈夫ではないかなと思います。

広河:風評被害というものはあいかわらず、あると思いますけれども、国や冨岡町は住民に戻るような呼びかけをしても、住民の方の中には実際は危ないんじゃないかと考えられる方はずいぶんいらっしゃるでしょう。どこからが風評被害で、どこまではそういう不安があっても仕方がない、と考えられるかを教えていただけますか。

富岡町:その線は引けないと思います。個人の捉え方によっても違うと思いますし、放射線の数値ひとつに関しても、自分の状況、家庭の状況等によって、ここまでなら大丈夫、この数字だったら自分は納得できない、というように、人それぞれだと思いますので。

町としては、そのような中でも、現地を復興して、戻ってこられる方に対しては戻ってきていただいて、生活を進められるよう、進めております。

広河:戻りたくないという人に対しては、その気持ちもわかると。

富岡町:はい。

広河:避難している人への国の補助が終わってしまいますね。

富岡町:はい、町としては昨年の6月に基本計画を作りました。それまでは国は、解除になったら戻る人、それでも戻らない人、というふうに分けていたのですが、当然、避難先での生活が長くなってくれば、そちらの生活の影響が出てくるので、学校の関係、お仕事の関係で、戻りたいけれども戻れないとか、今は戻りたくないけれども将来はわからないとおっしゃる方もおられるので、長期退避、将来帰還という言い方もされる方もおり、いずれは帰ってきますよ、という考え方も尊重したいということで、帰る帰らない以外の第3の道というものの考え方を示しました。それに対する支援を今後、どう充実していくかはいま検討をしているところです。

広河:みなさんが一番心配な、避難先での住宅支援もでしょうか。

富岡町:財政規模を考えると住宅支援はちょっと難しいかなと思いますけれども。

広河:本当は国がやらなきゃいけない。

富岡町:国の災害救助法の期限がきれた後に、町でどういう支援ができるか、探っているところです。

避難指示が解除になったからといってすぐ戻るということに結びつくわけではないと思いますので、毎年、町民の方に今後どうしますか、戻りますか、戻りませんか、どう考えていますかというアンケート調査を復興庁と協力してやっているんですけれども、その結果をもとに考えています。

風評被害については、生産品が売れなくなるとか、観光客が来なくなるとか、そういうのが一般的に連想されると思いますが、我々は現在、地元にいないので、そういう風評はあまりないと思います。ただ、避難生活に対しての偏見的なものも風評に含まれるのかもしれません。

広河:それはどういうものですか。

富岡町:富岡町民は、福島県内の郡山市やいわき市ほか、全国あちこちの自治体に避難させていただいていますけれども、「原発による避難だから賠償金が入る」「お金をもらっているんでしょう」と思われて、軋轢があるようです。それで避難先で住宅を借りても地域のコミュニティに入れてもらえない方がいらっしゃる。

広河:福島の県内でもそれは大きいようですね。

富岡町:私どもは地元の自治体さんとのやりとりはするんですが、実際住んでいらっしゃる方同士のことにどこまで入っていけるかというのは、なかなか難しいので。

広河:事故前の富岡町をそのまま復興するということは難しいかもしれない。もっと新しい冨岡町の形の模索が必要という考え方もありますか。

富岡町:復興計画をつくるまでには、職員だけではなくて、町民の方も検討委員会に参加していただいて、全体で100時間くらい検討を重ねています。そのなかで、町民の方からは、元に戻すというよりは、新しい町を一からつくっていくようなイメージで考えたほうがいいんじゃないか、という意見もでました。ただ避難した側から言えば、「賠償とかいらないから町を元の状態に戻してよ」っていうのが本音です。

広河:柔軟な形で復興を考えておられるという印象を持ちました。僕らはジャーナリストとして、安全、危険と、はっきりしているものもあるけど、そのあいだにはわからない問題がいっぱいある。「グレーゾーン」ですね。それを全部、「安全」にとりこんでしまっては無理がある、というふうに考えています。わからないということは、危険をはらんでいる可能性が払しょくできていないということになります。やっぱりグレーゾーンを安易に安全と言うのではなく、安全を立証できた段階で初めて安全だと断言できることだろうという考え方を持っています。

富岡町:私どもも町民の方に戻ってきてください、新しい冨岡に来て下さいという以上は、当然いろいろな問題は出てくると思いますので、情報を集めて、検証をして判断して公開するということは当然やっていかなければならないことだと思っていますので、その辺はたぶん共通することがあるのではないかと思います。

広河:改めて申し上げますが、私にとって縁のあるところでもあり、決して冨岡町をおとしめるようなそういうつもりはありませんので。

富岡町:そういったことはまったく感じておりませんので、大丈夫です。

誰にとっての「安心」で「安全」か

最後に他の質問に対する福島民友新聞社からの回答えについてのコメントを述べておく。

質問2の回答「事実とは異なる報道により」、質問3の回答「根拠のない、あるいは根拠の乏しいものの見方が広がり」、質問4の回答「客観的なデータに基づいて事実を正確にとらえ」とあることでもわかるとおり、確実なデータや事実というものが厳然とあるように福島民友新聞社は考えておられるようだ。しかし実際は、専門家の知見を含め、事実というものが私たちの手に届くところにあると信じている人はそう多くはない。なぜならそれは絶えず裏切られ、隠されてきたからだ。

それは私たちが疑り深いという理由からではない。事故後、政府や専門家、自治体の安全基準はころころ変わったし、米の全袋検査にしても、1キログラム当たり100ベクレルという基準値を上回るものはゼロだから安全だと言ってもそのまま安心する人は少ない。なぜなら自分はその基準値を受け入れるけれど、わが子や孫には10ベクレルでも少ない値を求めるものだからだ。子どもの基準は大人の基準とは異なる。できたらできるだけ低い値のものを食べさせたいと願う人は、福島民友新聞社の家族の人にも多いはずだ。こうした政府が決める「安全」が何度も覆されてきた痛い思いをした人々がいることを忘れてはならない。政府や自治体が決めた「安全」で、みんなが「安心」しているわけではないことに気が付いてほしい。政府が「安全」の基準を年間20ミリシーベルトまで引き上げる案には、専門家も泣いて抗議したのだ。それは緊急時には仕方がないと説得されたが、なぜそうした緊急状況の地に子どもや妊婦まで住んで大丈夫ということになるのか。

確かに福島の米は関東の米よりも安全なものが多いかもしれない。しかし私が沖縄でおこなっている福島の子どもの保養プロジェクトにはこれまでに2000人の子どもと500人の保護者が参加したが、ほとんどの人の願いは、福島の食品ではなく、九州以南の食品を食べさせてほしいというものだった。事故直後に須賀川の有機農業をやっておられた方が亡くなられたが、その跡を継いだ息子さんの樽川和也さん言葉をかみしめたい。それは「風評被害じゃないんだ。実害なんだ」というものだった(映画「大地を受け継ぐ」より)。「福島安全論」を進めるあまり、守るべき相手を見失わないようにしてほしい。