
飲食も禁止の管理区域、事故後は生活OK?
今回は、福島県の南相馬市から山形に自主避難している、まーくん(46歳)という元原発作業員の方のことをお伝えします。ぜひ皆に、彼の選択、考え方を知ってほしいと思うのです!
まーくんが自主避難を続けている理由は、4人のお子さま(中学生から結婚された方まで)を守りたいから。
初めて会って以来、私が山形に行くといつも、「俺の話なんか何もないっすよ」と言って、「もっと話を聞かせてくれる人を集めましょう!」と、福島から避難されている方に声をかけてくださいます。いつもありがたいのだけど、今回、「まーくんのお話をサシでたっぷり聞かせて」と頼みました。
まーくんは、電気関係の設備のお仕事をされていたため、原発の中にも入っていました。福島第一、第二原発、茨城県東海村の原子力施設にも行っていたそう。22、23歳のときは、新潟県の柏崎刈羽原発の定期検査の仕事も3、4か月したことがあるそうです。原発内で働いていた時のことを振り返りながら語ります。
「原発事故前、俺らは放射線管理区域ごとに教育を受けて働いていたんですよ。たとえば放射線管理区域のB区域(表面汚染密度4ベクレル/平方センチメートル未満等)に入るにはB教育を、C区域(40ベクレル/平方センチメートル未満等)に入るにはC教育を受け、区域ごとにどういった防護服を着用する必要があるか等について学習する必要がありました。
そうやって長年仕事してきたのに、原発事故があって、生活空間がB区域やC区域と同じような線量になったのに、いきなり『安全だからそこで子育てしてください』と言われても、『じゃあ俺らが今まで受けてきた放射線教育は何だったの?』ってなりますよね。放射線管理区域では、飲食や喫煙禁止、肌の露出も禁止だったのに、そこで生活しろなんて」
そのためまーくんは、事故直後の2011年3月、当時小学生から大学生だった4人のお子さんと奥さまを連れて、自主避難をしたのです。
「子どもの命を守るのは親の責任でしょう。生き物だったら、当たり前のことだと思いますよ」
――まーくんは2011年3月からずっと山形に自主避難してらっしゃるけど、山形にツテがあったの?
「全くないっすよ。知人もいないし」
――じゃあなんで山形に?
「3月14日に3号機が爆発して、これはプルサーマル発電で、プルトニウムの割合が高いMOX燃料を使っていたから、もうどえらいことだ、福島には戻れない、と考えて。風で放射性物質は運ばれるだろうから、山形だったら季節風の関係でも放射能が流れてこないと思って。小学校の理科と社会をやってたら、わかるんじゃないですかね?」