1830年、ボニン・アイランド=無人島(注1)と呼ばれていた小笠原諸島の父島に、初めて入植したのはハワイからやって来た欧米人5人とハワイ人20数人だった。現在の小笠原諸島には、ここにルーツをもつ「欧米系」と呼ばれる島民が暮らしている。19世紀末の明治政府による領有宣言、そして太平洋戦争後の米国統治など、島民は幾度も言葉やアイデンティティの変更を余儀なくされた。それでも「小笠原人」として生きる彼らのルーツをたどる。
写真/ステファノ・デ・ルイージ
文/デコート・豊崎アリサ
捕鯨と密接する欧米系のルーツ
海辺に建つ小屋のようなヤンキー・タウン・バーで、オーナーのランス・大平・ワシントンは地図を眺める。「ここらへんはヤンキー・タウンっていうんだ。 戦後米軍の司令部だったから、そう名づけられた」と、アメリカ英語で言う。
ランスの肌は褐色で鼻も高いが、目はアジア人のものだ。日本の他の場所なら外国人としか見られないが、小笠原諸島では、普通の「欧米系日本人」である。
欧米系住民(以下、欧米系)のルーツは、1830年にハワイ経由で父島に移住した米国マサチューセッツ州出身のナサニェル・セイヴァリー(Nathaniel Savory)ら20数人にある。彼らは鯨油を求めて小笠原に寄港した、欧米の捕鯨船の船員たちだった。「僕の祖先は、マダガスカル出身のジョージ・オーギュスティーン・ワシントンといわれている。あまり歴史の本に書いてあることは信じてないけどね。そもそも、ジョージ・ワシントン(米国の初大統領と同姓同名)なんて、コミックに出て来そうな名前だろう!」
実は、小笠原に初めて入植した人物については、ナサニェル・セイヴァリーのこと以外あまり知られておらず、その後上陸した白人系、黒人系、ポリネシアン系の人々の多くは、海賊や罰から逃れた脱走者だといわれている。
1950年に父島で生まれたランスは、米軍に入隊したために米国に渡ったが、90年代に故郷に戻ってからは、この島の秘密を熱心に探り続けている。「この島には失われた宝が残っている。僕のお祖父さんがそう言っていた」
島民引き裂いた疎開と改名
小笠原諸島は2011年に自然遺産に登録された。東京から船で25時間もかかるが、観光客は増え、「新島民」(注2)と呼ばれる移住者も多い。だが、「旧島民」となると事情が違う。旧島民とは、1876年(明治9年)、国際的に日本領土と認められて以降、島に送り出された日本人移民のことだ。以後、父島と母島では、太平洋戦争激化まで、およそ6000人の入植者がサトウキビやラム酒を作り、原住民と混ざり合った。この歴史により、日本でもユニークな共同体と民族が生まれた。
現在、人口約500人の母島では、住民は主に農産物を育てている。藤谷夫妻は愛知県から20年前に母島に移り住んだ新島民だ。鯨の鳴き声も聞こえる山のてっぺんに広がる畑で、パッションフルーツやミニトマトを収穫する。しかし畑の奥には、太平洋戦争時代に使用された2台の高射砲が雑草に覆われたまま残り、「南海の楽園」の裏側を思い起こさせる。
太平洋戦争の戦略上の拠点になった小笠原には、日本軍が基地をつくり、欧米系は突然「スパイ」と疑われた上、日本式の名前に変えるよう命じられた。そして1944年には、父島、母島、硫黄島の全島民が、本土へ風呂敷包み2つだけを持って強制疎開させられた。
(注1)英語で「小笠原群島」を意味する。江戸時代の「無人島」(ぶにんじま)という呼び名に由来。
(注2)太平洋戦争後、アメリカの統治下だった小笠原諸島が、1968年に日本に返還されてから新たに小笠原諸島に移り住んだ住民のことをいう。
ステファノ・デ・ルイージ 1963年、ドイツ生まれ。イタリア国籍。写真エージェンシーVII所属。DAYS大賞第6回1位、第9回審査委員特別賞など受賞多数。本誌には、2014年7月号「オーストラリア アボリジニの聖地をめざして」などを掲載。
デコート・豊崎・アリサ パリ生まれの日仏ライター、ジャーナリスト、写真家、ドキュメンタリー監督。サハラ砂漠の遊牧生活を支援する団体「サハラ・エリキ」主宰。本誌では、2013年12月号「独立宣言した遊牧民トゥアレグ族」を執筆。