30年前のチェルノブイリ事故で、甲状腺がんになり手術をした少女たちの多くが、今母親となっている。DAYS被災児童支援募金では今夏、そうした人々を保養施設ユージャンカに招待した。

ここは本誌発行人広河隆一がチェルノブイリ子ども基金代表だった1999年に、日本からの募金によりウクライナの黒海沿岸に建設した施設だ。招待したひとりポリシューク・インナは、来日したこともあり、多くの人々から愛された少女だったが、出産後に亡くなっており、今回はインナの母が孫娘を連れて参加した。

生まれて初めて海に入るマルガリータ(7歳)。母親のインナは彼女を出産後に亡くなった。保養施設ユージャンカ、黒海沿岸、ウクライナ。2016年7月4日
生まれて初めて海に入るマルガリータ(7歳)。母親のインナは彼女を出産後に亡くなった。保養施設ユージャンカ、黒海沿岸、ウクライナ。2016年7月4日 Photo by Ryuichi HIROKAWA

参加者たちにインタビューし、手術の様子や、その後の転移や症状、何が心のケアになったかなど話してもらった。ベラルーシでも同じように10人にインタビューした。本号ではウクライナの8人の証言を紹介する。

これらは福島で手術をした子どもや、これから手術する子ども、そしてその家族にとって、かけがえない助言となると信じている。

写真・インタビュー/広河隆一 Photo & Interview by Ryuichi HIROKAWA

もっとも必要なのは側にいて支えてくれる人々

コテンコ・タチアナさん(1986年生まれ)

コテンコ・タチアナさん
コテンコ・タチアナさん

チェルノブイリ事故が起きたとき、私は生後 3か月で、キエフ郊外に住んでいました。現在、私には 3歳になる息子、マキシムがいます。

1986年に事故が起きたとき、私は母乳を与えられていました。後になって、私たちは、母乳や牛乳を飲むべきではなかったと知りました。私たちは何も知りませんでした。なぜならすべてが隠されていたからです。

私の住んでいたところはチェルノブイリから離れていました。でも私の家族は、事故後にチェルノブイリからそう遠くない村に移り住みました。私はとても小さかったので、放射能の影響を強く受けたのかもしれません。甲状腺の異常が見つかったとき、私は7歳でした。超音波検査や、いろんな検査を別々の病院で受けました。少し怖かったです。

でも私はとてもラッキーでした。手術はうまくいき、1回で済みましたし、甲状腺は完全に切除されました。2度、放射性ヨウ素による検査を受けて、転移もなかったことが分かりました。

手術後、なぜか他の同じ年の子たちより、疲れやすいことに気づきました。この疲労感が、手術の結果出てきたもっとも顕著な影響でしょうか。

私が子どもだったとき、必要だったこと。それは、両親が側にいてくれることで、これが唯一であり、もっとも重要なことでした。他には何もいりませんでした。それがいちばん重要なことでした。

私は一度も自分の問題について隠したことがありません。手術の痕はそれほど目立つものじゃなかったので、多くの人は気づきませんでした。

病気のことは、友だちに話しました。彼らも病気のことについて聞いてきました。でも、病気を理由に、私を仲間はずれにしたりする子はいませんでした。

そして 2000年にユージャンカでのプロジェクトが始まったのです。私は 年まで毎年ユージャンカで保養しました。

もちろん私にとって、この保養プロジェクトは役立ちました。海の新鮮な空気を吸って、クラブ活動をしたりすることは、私たちが抱えている問題を忘れさせるからです。子どもたちが楽しいと思えることは、とても大切なことなのです。

男性との関係や結婚については、そんなに恐れていませんでした。でも、妊娠については、ちょっと怖かったです。それだけです。いま私は結婚しています。付き合い始めた頃、今の夫は私の首の傷について聞きました。私は彼に、お医者さんたちが大丈夫だと言っていると言いました。少し心配はありましたが、私たちは結婚しました。妊娠したときは、普通の妊娠の症状しかでませんでした。妊娠中も体調は良好でした。すべてがうまくいきました。そして子どもが生まれました。

息子のマキシムですが、高血圧です。お医者さんが検査をしたら、甲状腺が普通より大きいので、成長したら、もっと大きくなる可能性があると言われました。

福島の悲劇を知ったとき、まず第一に心から同情の気持ちを覚えました。私が経験したことと同じだからです。同じ問題を抱えた日本の子どもたちが、助けを必要としていると思います。そしてそれは、子どもたちの責任ではありません。

日本の子どもたちは恐怖に怯えることなく、平安に暮らせるといいと思います。彼らには、いつも側にいて、すべて大丈夫だって思えるように支えてくれる人が必要なのです。

人生は続きすべてはうまくいく

セメニューク・アンナさん(1985年10月21日生)

セメニューク・アンナさん
セメニューク・アンナさん

私はキエフ出身で、幼稚園の先生をしています。ダリアという名の 5歳の娘がいます。

チェルノブイリ事故については、私が 5、 6歳の時に母から聞きました。事故は私にとって重要なことでした。なぜなら、事故当時、私たちはチェルノブイリからそう遠くないポレスコエにいたからです。だから私は自分にも事故の影響があったと思っています。

母は事故の 日後にそのことを知ったと教えてくれました。マスメディアからではなく、親戚から聞いたのです。その後、カザフスタンのアルマトゥイに避難しました。 2週間程過ごして、またポレスコエに戻りました。

事故当時、ポレスコエでは、庭で採れたものを食べないようにと言われたと聞きましたが、誰も遠くから食べ物を運んできてくれる人はいませんでした。

私たちが本格的にポレスコエから避難したのは、事故から何年も経ってからです。私は幼少期をここで過ごし、夏を過ごし、もちろん牛乳も飲み、地元の鶏が産む卵を食べていました。

事故のことを聞かされた時、怖かったです。私の母は、ポレスコエの祖父母の家に行ってはいけないと言いました。私は落ち込みました。

1999年、私が 14歳のとき、学校での検査で病気が分かりました。医者は私の甲状腺に異常を発見し、それがとても深刻なものなので、もう一度病院で検査する必要があると言いました。そしてキエフの内分泌研究所に連れて行かれ、そこで血液検査と超音波検査をしました。症状を良くするために、薬を飲むべきだと言われ、それから半年ほど私は薬を飲み、お医者さんから経過観察されました。でも、うまく効きませんでした。それから、手術することになりました。

手術の前は、とてもナーバスになっていました。とてもショックだったのは、私が入院していた病棟では周りは大人ばかりで、10代の子どもは私ひとりだったのです。だからとても傷つきました。なんでこんな若い私にこんなことが起こっているのか理解できなかったのです。

そして 2000年、私は手術を受けたのです。がんの転移はありませんでした。病気は早期に発見され、素早い治療が施されたので、とてもラッキーだったと思います。

私は甲状腺の左葉を切除して、その後もたくさんの検査をしました。

傷口は小さかったので、うれしかったです。執刀医が小さくしてくれたのです。でも私が学生のころは、傷痕のせいで、精神的な苦痛を感じていました。だから、傷を隠すためにネックレスをしたり、スカーフを巻いたりするようにしました。でも成長するに従って、そういうことはなくなりました。今では大丈夫です。

私は結婚しています。夫とは学生時代に出会いました。同じ学校です。でも、出会ったのは私が手術をした後だと思います。彼は 10代の頃は、この病気がそこまで深刻だとは思っていませんでした。彼は結婚してから理解し始めました。今では私のことをとても気遣ってくれますし、世話をしてくれますし、お医者さんにも連れて行ってくれ、検査も受けさせてくれます。彼の家族も、私のがんについて大げさな対応をしたことはなかったと断言できます。今は万事うまくいっています。

その当時一番恐怖だったことを覚えています。それは情報が不足していたことです。情報がなかったので、手術後、すべてに怯えていました。自分の病気について何も知らなかったので、どうしていいのか分かりませんでした。

私は放射能について、子どもたちに話すべきだと思います。小さい子どもたちには、適切な方法で「放射能は悪いものなんだよ」と伝えるべきです。正確な情報を与えるのは、12歳くらいからが良いのではないかと思います。私自身もその頃教わりました。私は14歳の時に手術を受けましたが、自分の身に起こったことが少しは理解できました。

がんの診断を受けたあと、妊娠することを考えたら、将来が不安でした。妊娠はたいがいホルモンに関係ありますから、ホルモン・バランスが変わります。先生は手術のあと、「妊娠したら何かしらの問題が出るだろう」と言いました。そして私は、その 年後に子どもを産みました。

私は子どもの将来について、不安を抱えています。何が起こるか恐ろしいのです。私はがんになったので、将来再発するかもしれません。私の子どもも同じ病気になるかもしれません。だから私の一番の恐怖は、私の子どもに何が起こるかということです。

私がはじめてユージャンカに来たのは、2002年です。ここで日本週間があったことをよく覚えています。日本料理を作ったり、和服を着たり。日本に関係あるものすべてがとても鮮やかな思い出です。私はとても幸せでした。病気や問題を抱えている私たちにとって、気候はいいし、太陽も海もあって、いい雰囲気だし、食べ物も、すべてがここではすばらしかったです。

ここで同じ境遇の子と抱える問題について話す機会を持つのは、とても良いことだと思います。ひとりだと問題を抱え込んで孤立してしまいます。それは子どもたちにとって良いことではありません。

初めて福島の事故のことを聞いたとき、自分のことのように思いました。だから日本のみなさんが感じていることがよく理解できます。とても他人事とは思えません。

日本の子どもたちの甲状腺がんは、原発事故に直接関わっていると思います。なぜなら私たちはウクライナで同じ状況を経験したからです。私たちの病気は、チェルノブイリ事故のせいだとはっきり分かっています。だって、同じような年の子たちが、なんの理由もないのに、同じ病気や同じ問題を抱え始めるなんて、ありえないでしょう。日本の専門家たちは、その真実を受け入れるべきです。

日本の子どもたちは、絶望したり恐怖にとらわれたりせずに、進むことが大事です。人生は続き、すべてがうまくいくと信じています。もっとも大事なのは、絶望しないことです。自分を励まし、すべてがうまくいくと信じて下さい。

大切なことは生きていること

ポリシューク・リュドミラさん(1986年3月23日生)

ポリシューク・リュドミラさん
ポリシューク・リュドミラさん

私はチェルノブイリ原発事故のか月前に生まれました。私にはデニスという2年11か月の息子がいます。原発事故が起きた時、私は 1か月の赤ん坊でしたから何も覚えていません。その時私たちはチェルノブイリから 100キロ以上離れている所に住んでいました。

その頃、私たちは家の庭で、さまざまな野菜、果物などを育て、鶏も飼っていて、すべて自家製のものを食べ、自給自足の暮らしだったと聞きました。

事故が起きた際、私の両親は何が起こっているのか分からず、すぐ避難しないで、その場所に留まっていました。頼る親類はおらず、結局住んでいた場所からずっと動きませんでした。何も情報がなかったのです。

手術を受けた時、私は12歳でした。なにも自覚症状はありませんでした。

学校にはさまざまな専門の医師が検査に来ていました。その中で私を診察した内分泌科医が、精密検査をする必要があるから病院に行くようお母さんに伝えなさい、と言ったのに、私は母に伝えるのを忘れてしまったんです。私の母も甲状腺に問題があって、母が病院へ検査に行ったとき、医師は私のことも一緒に診てくれました。それで問題が見つかって至急キエフに行くよういわれ、そこで正確な診断がされました。

手術を受けたのは、1998年のことです。

実のところ、手術を受けるときにも、自分になにが起こっているのか見当もつきませんでした。手術室に向かう際も、母には笑顔で手を振っていました。でも4時間に及ぶ難しい手術を受けた後、激しい痛みと恐怖がやってきたのです。それに何日間ICU(集中治療室)にいたか、今では思い出せません。手術は1度ではなく、その後も2度受けました。

医師は、私が甲状腺機能亢進(こうしん)症で肺に転移があり、副甲状腺にも及んでいると診断しました。とても複雑な診断が下され、今でも健康の為にカルシウム剤を摂り続けなくてはなりません。

最初の手術を受けた時、医師は私に診断結果を決して言わず、「がん」という言葉は一切使いませんでした。医師が重要なことを親に伝える間、私は廊下で待っていなくてはならなかったんです。自分ががんだということを初めて知ったのは18歳か20歳の頃です。自分自身気になり始めて、母に聞きました。母は私の身に本当に起きたことを詳細に話してくれました。

ショックでした。それまでがんについても何も知りませんでしたから。がんにかかった人間は死んでしまうものと思っていました。でも母から私のがんについて聞いた時は、悲しみと、まだ生きていることの幸せの感情が入り交じりました。

手術の後、医師はしばらく薬を飲まなければいけないけれど、普通の生活を送れるようになると言いました。でも、その薬を一生飲み続けることになるなんて思いもしませんでした。最初の手術では甲状腺の片方を切除し、 3度目の手術では完全に甲状腺を取り除きました。それが私の一生にどう影響するか全く分かりませんでした。

さらに転移した肺のために、何度か放射性ヨウ素治療も受けました。20歳位の頃には婦人科系の問題も出てきました。

ここユージャンカに来てから、私は初めて同じ病気の若い女の子や男の子に会いました。最初は99年で、それ以来 6、7回は来ています。

初めて訪れた時は日本の人たちがいて、私たちの為にいくつかのグループを編成して、催しを開いてくれました。彼らから日本料理や折り紙を習ったりしました。日本式マッサージ、音楽療法もあり、とてもリラックスしたのを覚えています。

私は手術で出来たピンク色の傷がとても恥ずかしくて、ハイネックのセーターを着て、夏場はスカーフで隠しました。母は傷を隠す為にネックレスを買ってくれました。学校ではクラスは少人数で、誰も私を馬鹿にしたり笑ったりする人はいませんでした。通りですれ違う知らない人たちは、私の目を見ることはありません。彼らはじっと傷を見つめるので、とても恥ずかしい気持ちになりました。

ユージャンカに来た時、同じ病気で同じ傷をもつ人たちと出会い、話をしました。私たちは次のように自分に言い聞かせました。「何が問題なの? 私たちは生きて人生を楽しんでいる。人生は続くのだし、傷を見たい人は見たらいい。大切なことは生きていること」と。もちろん今は大人になったので、傷の事を忘れてしまうことも時々あります。最近ではほどんど誰も傷に気づかないようにみえます。

男の子と付き合い始め、結婚について考えるようになっても、妊娠したら問題が出る可能性があるなんて全く知らなかったので、恐怖や心配などありませんでした。初めて息子を産んだ時も、何も問題はありませんでした。

息子が生まれた時、私は必要な検査を全て受けました。息子が 2歳になった時、内分泌学者に息子を徹底的に検査してもらい、息子には健康上の問題は何も無いと断言されました。本当に幸せでした。どんな母親もそんな結果を聞いたら同じ気持ちになるでしょう。

福島の原発事故を知った時は、人ごとではなく、同じ苦しみをもった人々にとても深い思いを寄せました。本当に気の毒に思いました。

福島では、原発事故と子どもの甲状腺がんには直接的な関係があるのに、専門家はそれを認めようとしないことを、とても憤慨しています。恐らく彼らは人々を助ける気がないんです。ウクライナで全く同じ状況でしたから。同じことが日本でも起こっているように見えます。

日本の子どもたちに伝えたい大事なことは、心配したり失望したりせず、人生を楽しむために生き、子どもたちを産み、育ててくださいということです。たとえどんなことが起きても人生は続くのです。人生を楽しんで、心配しないで希望をもって、一生懸命生きて下さい。

「あなたはよくなる」母は私に言い続けた

コロリューク・ガリーナさん(1988年10月24日生)

コロリューク・ガリーナさん
コロリューク・ガリーナさん

私は専業主婦です。前はレストランで事務をしていました。私には3歳半の息子ダニエルがいます。

私は事故から 年半後に、チェルノブイリの西約 キロにあるポレスコエで生まれました。

その後、私の家族はボリスポリに移住しました。キエフからそう遠くありません。空港がある場所です。ポレスコエには友だちもいます。私の友だちたちは乳がんでした。私にも胸に腫瘍があるのですが、彼女たちはそれが甲状腺と関係があると言いました。甲状腺のせいで、新陳代謝が変化したのだと。

私に病気の兆候が初めて現れたのは、学校に通い出して 1年目のことです。鼻血が出て、貧血を起こし、時には気を失うこともありました。

父親のことはよく覚えていません。私が病気になった後、父は私たちの元を去って行ったからです。父と母は別れたのです。私はひとりっ子です。

私が 歳か 歳半くらいのとき、症状が出始め、母が私をキエフの内分泌研究所に連れて行き、お医者さんに診てもらました。一般的な検査をし、穿刺(せんし)をおこないました。そしてお医者さんたちはステージの高い甲状腺がんを見つけました。また彼らは、それは乳頭がんで、肺にもがんが転移していると言いました。緊急の手術が必要でした。

手術はあまりうまくいきませんでした。肺のせいで呼吸に問題があったからです。息ができませんでした。そのため私は経過観察のため、集中治療室でその後 7か月を過ごしました。

そこでミスがあったことがわかりました。彼らは私の声帯を損傷してしまいました。今でも私の声帯は麻痺しています。

その後私はフランスで甲状腺の再手術をしました。なぜならウクライナではその手術ができなかったからです。母はとても恐れていたし、いつも泣いていました。

1年前に、胸の腫瘍を手術して取り除きました。

今は子どもがひとりいますが、生まれる前は、自分の子どもが私と同じように健康に問題があったらどうしようかと心配しました。今、私の子には腕に血管腫があります。お医者さんたちは良性腫瘍だし、大きくはならないと言いますが、彼の将来を心配しています。

もちろん私は自分の病気について、友人たちに話しました。それは見て明らかだったからです。手術の傷痕もあるし、声も変わってしまったし、呼吸もうまくできなかったし …。それらの変化が嫌でも注目を集めました。もちろん、私を笑う人もいました。とくにクラスメートの中には。それはとても辛かったです。理解してくれる生徒もいました。でもそうじゃない子たちもいました。ただ私が差別されていると感じたのは、子どものときだけです。甲状腺の傷口のこと、呼吸のことなど、私の身に何が起こっていたのかをみんながきちんと理解していなかったからです。大人になってからは、一度も差別されたことがありません。大人はより理解しているからです。

私が将来の夫に出会ったとき、彼は私の傷に気づきました。私は彼にすべてを話しました。彼は一度も私のことを笑ったりしませんでしたし、いつも私のことを支えてくれました。そしていつも私を守ってくれました。

私は結婚しましたが、夫は亡くなりました。息子が 7か月の時に事故に遭ったのです。3年前のことです。

私は日本に行ったことがあります。 2000年、チェルノブイリ子ども基金の招きで、私は日本に行き、記者会見に参加しました。広河さんにも会いました。そして 年、ユージャンカに初めて来て、 05年まで毎年ここに来ています。

私は日本にスポンサーがいました。彼らは長い間、私を経済面で助けてくれました。

ユージャンカに来ると、とても気が楽になります。まるでみんな親戚みたいです。私たちはいつも舞台で余興をしました。コンサートや踊り、そして最後にはいつもディスコパーティーがありました。本当にすばらしかったです。

自分と同じような境遇の子どもたちにたくさん出会ったら、緊張することもありません。疎外感を感じなくても大丈夫です。でも、ひとたび地元に戻ると、また状況は戻ってしまうのです …。

数年前、母は事故で片脚を失いました。私は働いていませんので、私たちは補助金で暮らしている状態です。母が受け取っている年金は政府からのものです。

心理的な支援は大事だと思います。なぜなら、私の母はいつも私の側にいてくれたからです。彼女は「すべてがうまくいくし、あなたはよくなる」と私に言い続けました。だから私は元気になったのです。母はいつもポジティブでした。

私には、私を助けてくれるたくさんの友だちもいました。ここユージャンカでできた友だちです。私たちはいつも一緒で、子ども時代のほとんどを一緒に過ごしました。

私は、小さい子どもに放射能のことを言わないほうがいいと思います。小学校の子どもたちは、正確に理解できないと思うからです。だいたい 歳くらいから教え始めるのが良いと思います。

福島の原発が爆発したことを知り、人々が病気になっていることも知りました。恐ろしいことです。日本の人々にとって、家族の人にとって、悲しいことでした。日本の子どもたちに甲状腺がんが出てきているのは、福島原発の事故と関係があると思っています。なんと声をかけていいのか分かりません。

日本の子どもたちは元気になると信じています。現代ではすべての病気は治るからです。薬はとても進歩しています。だから未来を強く信じています。みんなが健康的で明るい未来を手に入れることを願っています。時はすぐに経ちます。彼らはすぐに成長するでしょう。そしてそれぞれの幸せを手に入れ、子どもをもつでしょう。今、私は時々、自分が手術をしたことも忘れています。なぜなら私の唯一の幸せである、息子と一緒なのですから。時がすべてを癒やしてくれます。

心を励まされた保養での出会い

バツーリャ・リュドミラさん(1984年8月31日生)

バツーリャ・リュドミラさん
バツーリャ・リュドミラさん

私はキエフで生まれました。心理学の教育を受けましたが、今は育児中なので、仕事はしていません。私は結婚していて、 4歳 1か月の娘がひとりいます。名前はマリナです。

チェルノブイリ事故が起きたとき、私は 2歳になる前でした。その時はキエフにいました。政府は国民に事故のことを伝えませんでした。事故の後、私たちはどうしたらいいのか、何の情報も与えられませんでした。お隣に住んでいた人たちは、外でガレージの塗装をしていたくらいですよ。

事故の時、私の家族はキエフの家に住んでいましたが、プリピャチに向かう軍や警察を見ました。窓の外を、たくさんの軍の車両が走っていて、両親は5月1日のメーデーのパレードの準備のためだと思ったそうです。

幸運だったのは、私の両親の友人がチェルノブイリ原発に関連する仕事をしていたので、彼が私たちにすぐキエフから 避難した方がいいと警告してくれました。それで 5月 1日に両親は私を連れてクリミアまで避難し、そこで 2、 3か月過ごしました。村で育てていた野菜も持って行きました。生乳は飲みませんでした。それから別の場所で 3か月過ごした後、キエフの家に戻りました。

事故の 7年後、父は脳腫瘍の手術を受けました。

病気のことですが、すべては私が13歳のときに始まりました。学校で健康診断があり、医師が私を検査し、何かを紙に書いて私に渡しました。そこには、何かのファーストステージだと書かれていました。その時は、処方箋だけでした。でもその 1年後、夕食を食べているとき、母が私を見て、自分の首を触って、私に明日、病院に行こうと言いました。なぜなら、私の甲状腺のしこりは一目瞭然だったんだと思います。

それ以前は、手がすごく震えるという症状もありました。だから、グラスに水を注ぐことができず、母は、「どうしたの?」と私に聞きました。母は私をキエフの内分泌研究所に連れて行きました。

到着したら、すぐに私は入院しました。

手術を受けたのは、1999年、15歳の時でした。医師たちは、「がん」という言葉を決して用いませんでした。

手術は1回でしたが、長い時間がかかりました。私の甲状腺はとても大きくなっていたのです。そのため、医師たちはとても複雑な手術をしなければなりませんでした。

手術の直後、いちばんショックだったことがあります。私が集中治療室にいたとき、窓を開けたいと思って、母を呼びました。でもしゃべることができませんでした。私は声を失ったことに気づいたのです。

しかし、 6日目に私はベッドに立ち上がって「私のメイクセットを持ってきて」と言いました。それから、物事が少しいい方に向かいました。

でも退院後も、声の問題がつきまといました。たとえば、バスなどでは私が降りたいと言っても、運転手に聞こえませんでした。だから私は、降りたいバス停の一つ前か後のバス停で降りざるを得ないこともありました。

学校では、教師の耳元で詩を暗唱しました。何か質問に答えねばならない時は、教師は私の側に寄ってこなければなりませんでした。でも、学校で一度も笑われたことはありません。笑われたため、精神的に大きな問題を抱えた子どもたちを知っています。私の場合は、クラスメイトや教師たちのすばらしい支えを受けました。

医師たちは、妊娠して子どもを産むのは難しいと言いました。でも私はすべてが可能だと断言できます。そのためには私たちは何をするべきか知る必要があるのです。でも情報は非常に少なかった。

近所にも同じ症状で、子どもがいる女性がいます。この女性も甲状腺がんでした。がんは 1年半前に発見されました。また私の母の友だちも同じ問題を抱えています。私が内分泌学のお医者さんのところに行くと、いつもそういう多くの人が列をつくっています。

私の両親は私が療養できる場所をいつも探してくれました。キエフの空気は光化学スモッグなどでとても汚染されています。だから私をどこか海の方へ送り出そうとしました。そして私は海のそばのユージャンカに来ることができました。保養は私にはとても効果的でした。心理面だけではなく、ここの新鮮な空気がとても体にいいので。

おかげで私はたくさんの子どもたちや子どもをもった女性と友だちになりました。私が彼らにアドバイスを求めると、いつでも的確な答えを出してくれました。初めてここユージャンカに来たとき、たくさんの日本の友人が多くのイベントを開催してくれました。こういった人間的なケアが私の問題を忘れさせてくれました。とても励まされましたし、感謝しています。

男性とのお付き合いや結婚について、なんの問題もありませんでした。私は自分の病気のせいで、精神的なコンプレックスをもつこともありませんでした。

私が夫と出会ったのは、22歳の時でした。その後、私は彼が私と同じ問題を抱えていると知ったのです。私たちは同じ病院に通って、同じ医師にかかっていたことが分かりました。しかし、成長するとともに彼の健康問題は解消しました。一方私は、甲状腺の手術をしなければいけませんでしたが、きちんと切除しました。

福島の事故を聞いたとき、私は放射能の問題について考えました。私の夫と私は、原発の電気ではなく、太陽光エネルギーや他の環境に優しいエネルギーを使っている国に移住することを考え始めていたからです。なぜなら、放射能は目に見えないし、私はどうやって放射能から自分の子どもを守っていいか分からないからです。だから、放射能の問題は私にとって死活問題です。

自宅には、 2つの放射能測定器があります。あと、子どものための食べ物を買った時に使う測定器もあります。

私たちがユージャンカに来た時、近くの町で私たちはソーラーパネルを発見し、それを娘に見せ、それが正しい、いいエネルギーで、こうあるべきなのよと説明しました。

福島の事故と、日本で甲状腺がん患者が出たことは、関係があると思います。なぜならウクライナと日本で起きたことは重なるからです。ウクライナではチェルノブイリ事故前は、そんなにこの症例はありませんでした。だからもし、福島の事故前に症例があまりなく、事故後に多発したのであれば、関係があると言わざるを得ません。

日本の子どもたちも、手術の後のリハビリがうまくいきますように。そして、手術の後遺症がないように望んでいます。

「自分は普通」と感じる心理サポートが必要

サスノフスカヤ・インナさん(1984年4月15日生)

サスノフスカヤ・インナさん
サスノフスカヤ・インナさん

私は旅行会社で働いています。私にはオクシニアという 3歳半の娘がいます。

チェルノブイリ事故が起きた時、私は 2歳になる直前でした。家族はその時キエフに住んでいました。両親は事故のことを 5月の休暇の後に知り、その後に避難したのです。両親は600キロくらい離れたポーランドとの国境に近い祖母の元に私と姉を送り、私たちはそこで 4か月程過ごしました。母は薬局でヨードチンキを買おうとしたけれど売り切れていたと言いました。

初めの症状が出たのは 1998年、13歳の時です。頭痛も度々ありました。冬には、厚いセーターやハイネックなどを着ていました。だから両親は長いこと私の変化に気づきませんでした。ある日、母が私の首の右側にしこりを見つけ、そして病院に検査に行きました。 2月の中頃から終わりくらいだったと思います。医師は「今まで自分を鏡で見たことはなかったの? なんでもっと早く来なかったの?」と言いました。そして、私に診察室から出るように言いました。母に何か良くないことを伝えたのです。

初めて病院に行ってから、手術まではたった 1週間でした。最初の手術までの間はあまりに短かったので、たいして恐怖を感じませんでした。私は3月に手術を受け、甲状腺の一部を切除しました。その腫瘍が、悪性なのか良性なのか分析するためです。その分析には数週間かかりました。分析結果が出ると医師が母を呼び、 2度目の手術は避けられないと語りました。 2度目の手術は 5月に実施されました。 1度目と 2度目に 2か月の開きがありました。

大変だったのは、 1度目の手術後でした。集中治療室にいたとき、私の体は、急激な状況変化と、ホルモンの変化に、激しく反応を示したのです。手術よりそっちの方が辛かったです。

私は 3月に最初の手術を受けたので、その学年を終えることができませんでした。そして 9月に学校に戻ると、クラスメイトたちはなぜ学校に来なかったのか、どうして前の学年を終えなかったのか私に聞きました。先生は私が筆記試験を受けることを許してくれたので、そのことで他の生徒たちは、「なんであなたは特別扱いされているの」と聞いてきました。そのせいで私は自分の傷を隠すようになりました。とても生々しかったので、当時の私は自分の見た目にイライラしていました。だから、手術後の 1年間は学校がとても辛かったです。

手術後は、私にとって辛い時期でした。ティーンエイジャーだったし、初潮があって、肉体的に大変でした。精神的にももちろん大変で、私の母は私の手術の後、私を世話するために仕事を辞めました。

母は、私が行ける保養施設を探してくれました。ベラルーシの保養施設ナデジダでは新鮮な空気を吸えたことを思い出します。また、同じ病気をもつ友だちができました。ユージャンカも同じでした。私は新鮮な空気が大好きでした。学校ではコミュニケーションを取ることができませんでしたが、ここに来ると、それができました。だから一年中保養に行くのを心待ちにしていました。 1年に1回しか来られないことが残念でした。ここに来ると、私たちはひとつになれるよう、いろんなレクリエーションがあったことがありがたかったです。ここで出会った友だちとは約20年来の付き合いです。

当時、医師たちの中には、子どもをつくることは禁止だと言う人もいました。私は不安でした。でもその後、同じ病気の女の子が子どもを産んで、何の問題もないと言ったので、私は救われました。

6年前、私は将来の夫と付き合い始めました。彼は私が手術したことは知っていましたが、病名については知りませんでしたし、がんだったことは知らなかったのです。でも、子どもをつくろうとした時、私は彼に病名を、つまりがんだった事実を伝える決意をしました。彼は受け入れてくれ、私たちの関係は何も変わりませんでした。だから私たちは子どもを産み、今ではとても幸せです。すべてうまくいっています。

「がん」という言葉が怖い人もいるでしょうし、かわいそうにと私を哀れみの目で見る人もいるでしょう。だから私は友だちにしか話していません。それを言ったからといって、私たちの友情は変わりませんでした。

もちろん私は子どものことを心配しました。妊娠したとき、産婦人科医は、特別な病院に行くよう私にアドバイスしました。通常、妊婦は妊娠期間中に2回ほど超音波検査を受けますが、私は10回も受けました。私の妊娠期間は問題なく過ぎました。そして私は普通の産院に移りました。産科医は私に特別注意を払ってくれました。おかげで、出産も順調でした。幸運なことに、私の子どもには、私が受けた診断と同じような病気は何もありませんでした。

私は学校で放射能や事故について教えるべきだと思います。小学校ではまだ早いので、中学校くらいで、教科として教えるのがいいと思います。強制ではなく、選択科目などでいいのではないでしょうか。私たちは放射能とは何なのか、子どもたちに伝えるべきです。どうして病気が出たのか、事故の後にどんなことがあったのかを。そういったことを子どもの成長に合わせて、だんだん深く教えていく科目があればいいと思います。

ティーンエイジャーや大人なら、放射能から身を守るにはどうすればいいか、きちんと理解できると思います。

福島の事故について聞き、ショックでした。それは予期していないことでした。チェルノブイリの経験があった後、テクノロジーの発展している日本で事故が起きたのですから。日本の人たちが何の準備もしていなかったという事実にも驚きました。私たちがチェルノブイリ事故を乗り越えてきたように、同じことを克服していかなければなりません。

福島原発事故と小児甲状腺がんの増加は関連があると思います。チェルノブイリの経験があり、私たちは学んだはずなのに、驚くべきことでした。それについては研究がなされ、甲状腺がんの増加と原発事故との関係については、公式に証明されました。日本の人々はその事実を受け止めていません。

日本の子どもに送る私のメッセージは、肉体的な問題や痛みは、時とともに消えてくということです。感じなくなるか、気にしなくなるでしょう。だからあなたは、すぐに肉体的には元気になります。心理面では、もっとサポートが必要でしょう。もっとも大事なのは、コミュニケーションです。同じ問題を抱える子どもたちとのコミュニケーションです。彼らは自分たちの問題について話し合い、助け合うべきです。同じ問題を抱えた子だけが、あなたの心理的な問題を解決してくれるでしょう。問題を抱えていない子と話しても、理解してもらえないでしょう。ただ、かわいそうだと思われるだけです。同じ問題を抱えている子なら、あなたは自分が普通の子なんだと思わせてくれるでしょう。普通の人生を送っているのだ、普通の未来があるのだ、人生は続いていくのだと。普通だと感じることは、もっとも大事なことです。だから心理面でのサポートがもっと必要だと信じています。日本の子どもたちが未来を手に入れ、人生が続き、元気になることを心から祈っています。

日本の子ども全員に美しい未来がある

コステリナ・イエレナさん(1988年10月1日生)

コステリナ・イエレナさん
コステリナ・イエレナさん

私は事故の 年後にオデッサで生まれました。現在27歳です。英語の語学学校でマネージャーの仕事をしています。結婚していますが子どもはいません。子どもをつくる予定はあります。

両親が私の首に最初の異常を見つけてから、診断が下りるまでとても早く、あっという間でした。

私の両親は、「がん」という言葉を一度も使いませんでした。私にとっては、恐怖というより、冒険だと思いました。両親は不安や悩みを私に見せないようにしていました。私が、母が泣いているのを見たのは、1回だけです。

手術前に私は、血液検査、超音波検査を受けました。それからお医者さんが穿刺をして、腫瘍を見つけました。私は手術を受けなければなりませんでした。

先生たちは穿刺の間、「いい子にしていたら、ご褒美をあげる」と言いました。私はいい子にして、カラフルなガラスのかけらをもらいました。私はめそめそなんかしていませんでした。たぶん、小さすぎたんでしょうね。

両親はもっと心配していたと思います。1995年、7歳の時、キエフの内分泌研究所で手術を受け、甲状腺を全摘出しました。濾胞(ろほう)がんでした。

複雑な手術になり、 時間もかかりました。耳の側のリンパ節に転移していたのです。先生たちは、声帯を傷つけるのを恐れました。また私には、心臓の問題もありました。手術後、私は人工呼吸器をつけなければならないと分かりました。本当に大変な手術だったのです。でも、手術は成功しました。

私は、12月31日にオデッサに戻り、小学 1年の終わりまで、母と自宅学習をしました。そして次の 9月に、普通の子のように学校に行きました。

96年にスウェーデンの基金に招かれ、スウェーデンにまで行きました。フィンランド基金にも招かれ、フィンランドにも行き、私は4回外国に行きました。

傷についてですが、一度も隠そうとしたことはありません。私がラッキーだったのは、お医者さんが傷口を閉じるスレッドを使わなかったからです。特別なクリップを使って、傷を閉じたので、痕があまり残らなかったのです。

手術中、お医者さんはやっぱり私の声帯を傷つけていたのか、まったく違う声になりました。呼吸の問題で、私はいびきのような音を出していました。だけど、今まで一度もばかにしたようなあだ名を付けられたこともないので、それに驚いています。だから、差別を受けたことはありません。2年生になって学校に行った時、私は8歳でした。

私は友だちに病気のことを隠したことはありません。私はオープンな人間ですから、いつでも自分の問題について話し、彼らの質問に答えています。でも、たまに知らない人が通りで私に近寄ってきて、「これは何だ」と聞いてきたら、質問には答えません。

男性とお付き合いするのにも、恐怖を感じたことがありません。私は自分を信じる力がとても強いのです。お医者さんたちも、私は男性に対して、知的にも身体的にも魅力を持っていると言ってくれました。心配だったのは、私にとってふさわしい男性が現れるかどうかということでした。

ここユージャンカに初めて保養に来たのは、2001年、私が13歳の時でした。

ユージャンカは、多くのことを与えてくれ、私の人生の中でももっともすばらしいものでした。ここではなんでもすることができたからです。私は何度かミス・ユージャンカに選ばれました。私はここに来る日を、毎年心待ちにしていました。ここでは、自分のことを表現することや、どうしたらより元気になれるかを教わりました。それは私たちにとって、大きな助けになりました。

ここで同じ病気をもつ、たくさんの友だちができ、お互いに助け合いました。私たちは、手術や麻酔の思い出を話し合い、そして笑い合いました。もっとも大切なことは、いまだに続く友情を得られたことです。15年間です。

日本でもこのような場所をつくることが必要だと思います。

福島のことを聞いて最初に思ったのは、事故によって苦しんでいる子どもたちと両親の悲劇についてでした。心理的なサポートが必要だと思います。それに情報も必要です。何が起きていて、何をされたのか、この先何が起こるのかも。

日本の子どもに言いたいことは、あなたたち全員に、輝かしく、美しい未来があるんだよということです。福島の事故のせいで何かを背負う必要はありません。周りの人に影響されることではないということです。子どもたちは未来が手に入ると信じるべきです。

今回インタビューした甲状腺がんの手術をした人の中には、チェルノブイリ事故の 1年以上後に生まれた人も含まれています。甲状腺がんの権威であるトロンコ氏(ウクライナ内分泌研究所所長)は、これらの人もチェルノブイリ事故の被害者であると述べています。インタビュー詳細は10月号に掲載予定です。

(協力/高尾弘、Diane Takao、Matthew Takao、飯田みゆき、鹿沼千種、グマロワ・ベロニカ、パセンコ・ナタリア)