チェルノブイリ事故後に起きた、子どもたちの病気や、それを助けるための調査や救援の経験を福島原発事故後の日本に活かそうと本誌編集長の広河が行なっている。スライド講演は、身近に平易に理解していただくためにまとめられた。1986年の原発事故の後、どんなことが起きたのか、当時の写真を一枚ずつ手繰る。
写真/広河隆一Photo by Ryuichi HIROKAWA
事故直後に急性放射線障害で死亡した消防士と原発運転員らが埋められた場所。福島事故後の官邸ホームページでは、長瀧長崎大学名誉教授が、チェルノブイリ事故3週間以内の28人は放射能による死者、4週目以降の死者は放射能のせいではないと発表している。モスクワ。(1989年)
チェルノブイリ事故の被災地は長く秘匿されており、世界中のジャーナリストたちが、現地取材を求めたが禁止されていた。唯一取材に成功したジャーナリスト(左)に対して、放射線医学の権威者が、「不安をあおるな。専門家でない者が口を出すな」と批判している。(1989年)
プリピャチから避難し、事故後出産した女性たち。一番左に写っているのが、タチアナ・ルキナ。救援を世界に呼びかけた。写真の子どもたちは成長につれて多くに、血液の病気などが見つかった。母親たちは「なぜ、安全だということを信じてしまったのか」と自分を責めていた。(1986年)
自分たちで自分を守らなければと、子どもの保養、医療体制などの救援運動の代表となったタチアナは、世界からの救援金や物資が、必要としている人びとには届かないと訴えた。外貨流入をあてこんで救援団体が乱立したのだ。(1989年)
高等学校の敷地内の線量を計測する小学校の校長。彼は自身の生徒たちの病気のリストをつくり、世界中に発信し、救援を求めた。当時チェルノブイリ救援運動をスタートさせた私たちは、食品放射能測定器を贈り、校長室が市民放射能測定所になった。こうして彼の小学校が病院と連携して救援運動の中心となっていった。
事故から15年が経っていた当時も行なわれていた牛乳の汚染検査。この機械では、セシウムは検査できるが、プルトニウムやストロンチウムは検査できない。測定していた技師は「これで安全だという確信は自分たちには持てない」と話した。
比較的汚染値の低い地域の健康被害や、植物への影響を調べる研究者。低線量であっても、長期間にわたる被曝により、植物にはさまざまな異常が見られた。異常は細胞分裂が活発なとき(人間なら乳幼児)に起こりやすいという。
ウクライナのナロジチ地区の集団農場では、1988年に目の見えない豚が30頭、障害のある牛が多数産まれ、すぐに死んだ。